C・S・パース「なぜ我々は無限について推論できるのか」

                   1859年10月25日

 

 なにが議論されうるか。定義できるものはなんでも三段論法に組み込むことができる。我々は考えることのできない多くのものを定義できる。我々が定義するのは決して事物ではなく、観念や疑似観念である。さて、我々は考えることのできない諸観念を定義できる。かくして四辺の三角形は定義された疑似観念であり、我々はそれについて推論し、その不条理を示すことができる。

 無限とはなにか。どのようにそれは定義されるか。無限はなにであるか。それは一事物の概念ではなく、一事物の性質の概念でもない。我々が善人について考えられるなら、それは第一に人間についての考えをもち、第二にの概念をもち、第三にそれら二つの総合を行えるからである。この総合を私は善と人間の流入的依存が抱懐されているのだと表現する。流入的依存には三つの種類がある。第一に、人間は善ではないというときの否定、第二に、彼はよいというときの限定、第三に、善という概念を人間全般にまで押し広げるときの無限である。このとき、無限は諸性質、所有されると考えられる性質についてのみ述語づけられる。それゆえ我々は無限の概念を分析できる————我々がもったことのない概念であっても、その概念と関連づけて述べることができる。

 

 無限とは、限定がそうであるよりも、否定から遙かに遠い諸性質の流入的依存である。無限について我々が立てる命題がこのことから導きだされるのは明らかである。かくして、「無限の線の二倍は元の線の二倍の長さがある」というのは、無限が性質の実定的な流入的依存であるという前提によっている。同様に、無限小が無視されうるというのは、無限が限度を超えているという事実によっている。

 

 我々が考えることのできない疑似概念あるいは概念は二種類ある。第一に、我々が定義において疑似概念と分析する概念は、他の概念と結びつくことを拒み、矛盾する。後に、こうした概念がなんの事物もあらわしておらず、もっていないことの形式的な証明をしよう。

 

 第二の場合には、要素となる概念は結びつくことを拒まないが、我々の総合する力が不十分で、結合が完成され得ない。四つの巨大な観念がある。

 

統一

現実あるいは無限

実体

必然

 

 この種の疑似概念は正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。この点において、それらはまさしく限定された概念と同じである。他方において、その真理は実定的な真理ではありえない。我々が考える無限最大限以上のものであると我々は決して確言できない。しかしながら、この点においてまさしく否定的な概念と同じである。否定的なものを想定するとき我々は結局のところ、転倒した無限を想定している。