ブラッドリー『仮象と実在』 193

[単に楽しいことはなぜ善ではないのか。]

 

 しかし、善は(と反論されるかもしれない)観念を含む必要はないのではないか。楽しいことそのものは善ではないのか。我々が満足するような感情はどのようなものであれ、それ自体善ではないのか。私はこれらの質問には否定をもって答える。善は、正確な意味合いにおいては、欲望の満足を含む。少なくとも、想定された観念が実現から離れていると考えられるとき、善よりは低い段階にある。そうした経験は、善あるいは真となるようにも思えようが、正確にはそうではない。反省してみると、我々はそうした言葉を使用することも望まないだろう。というのも、心的生活において、いかに我々を満足させ充足させるものであっても、欲望と関わるものはほとんどないからである。なんら想定されるもののないところ、我々が感じるものについてなんの観念もないところ、いかにぼんやりしたものであれ、「これが善である」という理解するものがないとき――そうした段階を善と呼ばないことは逆説でも何でもないだろう。そうした感じは、ある瞬間、私がそれをそう見たときに善になる。というのも、私は満足させるものについて観念を持っており、その観念もまた事実に見いだされるからである。しかし、観念がないところでは、我々は実際に善である、あるいは真であるものについて語ることはない。善と真はそこに潜在的にあるのかもしれないが、どちらも実際に存在しているわけではない。

 

 そして、善を必要とする観念はごく明らかだと思われるが、欲望に関してはより疑いの余地が大きい。実現された快の観念を見いだす感覚、欲望が不在のものとしてあらわれる場合も認めることができる。ある場合には、存在は私の観念には対立せず、それゆえ、欲望の緊張に開かれた場所などないからである。この主張は論争になるかもしれないが、私自身についていえば、それを認める準備はできている。そして、この限りにおいて、善の観念に欲望を含めることは任意だといえるだろう。しかし、(事物がそうであるように)欲望も発展するに違いないので、正当化されうるようにも思える。欲望なしに是認することは、極端で過渡的な条件に過ぎない。私の状態において揺れ動き、対立することはあり得ない。そしてそれによって我々は欲望が必要とする緊張を得ることになる。欲望はある瞬間、是認を得ないことは私も認める。しかし、必然的にそれに続いて起こらねばならないので、本質的なものだととれる。だが、この点は私の意見では、ほとんど重要ではない。重要なのは、ある観念の現前が善に本質的なことだと主張することである。