ブラッドリー『仮象と実在』 224

[現象と絶対]

 

 我々はこの章で主として、否定に関わるものを扱ってきた。あらゆるものは現象であり、いかなる現象も、あるいはその組みあわせも実在と等しくはない。これはなかばは真実であるが、それ自体としては危険な間違いである。我々はそれに対応するものおよび付加されるものを付け加えることで正さねばならない。絶対はその現象であり、実際にはそれらのすべてである。それがもう半分の真理であり、我々がすでに主張したことであり、ここで再び論じねばならないことである。そして我々はこの点について致命的な誤りを思い起こすかもしれない。もし現象をひとつだけ取り上げ、あるいはすべてをともに取り上げ、絶対はそれらのうちのひとつかあるいはそのすべてかと主張するなら――その立場には希望はない。最初にそれらを現象だとおとしめておいて、いまではそれを正反対のものだと主張するのである。絶対と同一視されるのは現象ではなく完全なる実在である。しかし、我々はこの難問を解決し、そうした半分の真実がひとつになったときの意味合いを知っている。絶対はそれぞれの現象であり、すべてであるが、そのようなどれかではない。すべてが等しくあるのではなく、一つの現象が別のものよりより実在であることもある。つまり、実在と真理の程度の原理は我々の問題にとって根本的な答えである。あらゆるものは本質的であるが、あるものは他のものと比較して価値がない。完璧なものはなにもないが、ある程度は完璧さの活気に満ちた働きを含んでいる。あらゆる経験の姿勢、世界のあらゆる領域や次元は絶対のなかに必然的な要素である。それぞれが自身以上のものと比較されるまでは自らに満足している。それゆえ、現象は誤りではあるが、あらゆる誤りが幻影だというわけではない。(1)あらゆる段階にはより高い原理が含まれており、あらゆる段階は(それゆえ真である)既にして不整合である。しかし、他方において、それそのものを取り、それ固有の観念で測るなら、あらゆる次元は真理をもつ。それは自らの主張にであい、既にそれを越えたものによって検証されるときにのみ偽であることが証明される。かくして絶対は現象のあらゆる領域に行き渡っている。それらは程度と地位をもつが、どれもこれも同じように必要不可欠である。

 

 

*1

 

 我々は絶対が住まわないほど低次の世界を見いだすことはできない。断片的で貧しい単一の事実さえ存在せず、宇宙とはなんの関連もないものなどない。どれほど間違っていようとあらゆる観念には真実があり、どれほど僅かなものだろうとあらゆる存在には実在がある。そして我々が実在や真理を指摘できるところであれば、そこには絶対のひとつの分けることのできない生がある。実在のない現象は不可能であるときに、それではなにがあらわれるのだろうか。現象のない実在は、現象の外にはなにもないことは確かであるから、なにものでもないだろう。しかし、他方において、実在(我々はこのことを繰り返さねばならない)は事物の総計ではない。集ったすべての事物が等しく変化しないまでも、同じように変化し、性質を変えた性質である。既に見たように、こうした統一では、孤立と敵意の関係が肯定され、吸収される。それらはもちろんそれ自体として調和しているわけではなく、時にはその本性が分離したものに限定されてはいるが、全体のなかでは調和している。それゆえ、我々の見解への反対論として、醜さや意識的な悪に見いだされる対立が盲目的に主張される。極端な敵意はより強い関係を含んでおり、この関係は全体のなかにはいるとその統一を富ませる。あきらかな不調和や不和は調和によって征服され、より十分で個人的な発達の条件でしかなくなる。しかし我々は絶対そのものが醜いとも悪であるとも語ることはほとんどできない。実際、絶対はある意味悪であり醜く間違っているが、そうした述語が適用されうるような意味は押しつけられた不自然なものである。それぞれの述語が擁護しがたい分断の結果であり、それぞれが断片的な孤立したもので、それ自体首尾一貫した意味をもっていないとき全体が用いられる。醜さ、悪、誤りはそれぞれの領域において、従属的な側面をもっている。それらの区別が崩れ落ち、それぞれが絶対の王国のひとつの主語の属国になる。それらは関係を含むが、そのいくつかは限定されたものであろうと、よりよい全体に向けていく。こうした小さな全体のなかで、対立はその生の形式を引きだし、それが支える体系によって打ち負かされる。悪である、醜い、間違っているという述語はそれらがなにを性質づけようと美や善や真の領域に従属した側面としてしるしづけられる。そうした位置を至上の絶対に帰することは明白に不条理であろう。醜さや間違いや悪などの特徴を部分的な要素の領野として絶対は有しているのでそれらをもっていると主張できる。しかし、それが断片的であり、依存した細部のひとつであると主張することは認められないだろう。

 

 主語の体系は、それを全体と見なしたときに、認可を与えることによってのみ実在の性質をつくりだすことができる。我々が宇宙を美しいというか道徳的というか真であるというか、常に修正や黙認のもとにある。それ以上先へ進むことは無用であるし危険でもあろう。

 

 もし絶対を道徳的に見るなら、絶対は善である。善にあり、善によって打ち勝てないような要素はひとつもあり得ない。同じように、論理的あるいは美的に見れば、絶対は真や美でしかあり得ない。単に、そう名づけたり、それらが圧倒的な性格を持っていると主張し続けたりしたときにだけに偽や醜さという観念を導入することができる。そしてそのように導入されると、それらの絶対への直接的な適用は不可能である。かくして、至上の宇宙と部分的な体系とを同一視することが、ある目的のために、許されることになる。しかしそれをこの体系の内部における単一の性格と取り、すでに打ち負かされた特徴であり、そこに抑圧されているということは、すでに見たように、不当なことだろう。醜さ、誤り、悪はすべて絶対によって所有され、絶対の富にすべて本質的に寄与する。絶対は、一般的にいって、現象を越えた資産ではない。また、現象だけでは絶対は破産してしまうだろう。それらすべては変造されなければ価値のないものである。しかし、他方において、変化の量がそれぞれの場合において異なっているので、現象はその真や実在の程度が広く異なっている。他と比較すると間違いや非実在である述語も存在する。現象の領域を概観し、それぞれを完璧な個別性という観念で測り、それらを秩序に則って、実在と長所の体系に配列する――それが形而上学の仕事だろう。この仕事は(繰り返すことになるかもしれないが)いまのところでは試みられない。しかしながら、ここでは上述のように、根本的な原理を説明し主張することに努めよう。そして、それを経ることで、私は関心のあるいくつかの点について言明することに進むことになろう。この段階で整えておきたいいくつかの問題がある。

*1:

(1)これらの相違については第二十七章を参照。