幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈42

麿が月袖に羯鼓を鳴らすらむ  重五

 

 「麿が月」、麿を所有格として解釈してはならない。深川夜遊の「唐辛子の巻」に、「伏見あたりの古手屋の月」という芭蕉の句があるが、古手屋が月の主ではなく、古手屋のあるところの空に月がかかっているのである。ここも、何麿などという人がいて、そこに月がある。『炭俵』の「秋の空の巻」、其角の句に「顔にもの着てうたゝねの月」とあるのも、月がうたた寝をするというように解釈しては理解できないものになる。うたた寝する人の上に月が照っているのである。詩でも、温庭筠は「鶏声茅店月」といい、楊萬里は「老別魚竿月」といい、陶弼は「照枕残雞月」とさえいった。残雞の月は特に面白い。詩歌には言葉が窮屈になっても情の豊かさを尊ぶことが常である。麿が月を訝しく思うことはない、こうした語法はあるものである。

 

 鞨鼓は戎である鞨からでたものなので鞨鼓という、亀茲、高昌、疎勒、天竺の各地方で用いられている。その胴体部は漆桶のようで、桑の木をもってつくり、我が国では槻でつくる。下に小牙床というものがあって支え、二つの杖でこれを撃つ。杖は黄檀、狗の骨、花楸などの木を用い、まげものは精錬した銅鉄でつくる。その音はものを煎るかのように激しく、一般的な音楽とは異なる。唐の玄宗、音楽に精通し、もっとも鞨鼓を愛して、それ以外の指導者はなくともいいとまで言った。我が国でも三鼓の第一とし、括弧を撃つものは音楽の指揮者である。唐のときに盛んに行われ、宋環、杜鴻漸、韓桌のような貴人もこれを演奏し、汝南王は非常にうまかったので、人間ではないと言われたことさえあることが伝えられている。我が国の音楽は唐の影響が非常に強く、鞨鼓も伝えられて、宝亀年間の壬生駅麿、天永年間の中臣為行など鞨鼓が上手であったことが知られており、楽器と技がいまになっても残っている。唐の南卓の『鞨鼓禄』によれば、「鞨鼓は高い屋敷で、晩景、清い風が吹いているときによく、空を突き抜けて遠くまで音が通る」とある。また、宰相、杜鴻漸の嘉陵山の山水景致があるのに対し、月の色がよいので、駅楼にのぼり、川に映る月を賞して、鞨鼓をとって数曲演奏すると、あたりの猿や鳥がみなそれに感じ入り驚いて、盛んに鳴き声が起こったことを記している。鞨鼓と月とがふさわしいのがよくわかろう。さて、「袖に鞨鼓をならすらむ」は、袖のなか、または袖の上で鞨鼓をならすのかといえば、そんなことがあるわけはない。鞨鼓は小牙床という置き場所があり、それを二本の杖で撃つものだからである。牙は少々突出するものをいい、いまの能楽で使う大鼓を受ける台を見て、推察すればいい。鞨鼓とその台の図は『集古十種』に見られる。月見がてら鞨鼓を打ちながら逍遙することなどと、曲齋がいうのはまったく異なっている。道を行く車に小牙床を据えて鞨鼓を受けさせ、それを二本の杖で撃つとでもいうのだろうか。鼓には、腰鼓、都曇鼓、答臘鼓、鶏婁鼓などがある。腰鼓は漢の第三鼓で、手で拍つ。都曇鼓はインドの由来で、腰鼓に似ていて小さく、小さな槌で撃つ。答臘鼓は鞨鼓に似ているが短く、指で擦るので、?鼓ともいう。鶏婁鼓は形が円形で、撃つべき平らなところが数寸だという。腰鼓、答臘鼓などは逍遙する車で演奏することもできようが、鞨鼓はできない。曲齋が、袖というのは両手のことだというのは、ただ自説の窮したところをあらわしているだけである、鞨鼓をどうして手で鳴らすことがあろうか。曲齋はこの句と前句とのかかりを解釈して、鶉を聴きに出て帰るとき、仲の悪い人が月見がてら鞨鼓を打ちながら逍遙する様子を見て、行き会っては興が冷めると思い、もっと先までいって鶉を聴こうと道を変えて帰るさまだという。前句とのかかりはともかく、一句の解がおぼつかなく無理がある。そこで前句を「車ひきゆく」と改め、この句を「鞨鼓ならすなり」と改めようとしている。句を改竄してまで解釈を主張するのは、恣意的に過ぎるといえよう。

 

 何丸は漠然とある本の説をあげ、安部仲麿を明州に送るとき、その頃の詩人がはなむけとして鞨鼓を鳴らしたのだという。中麿の送迎の宴としては、一句の解としてはともかく、前句とのかかりになんら接点がない。前句の風情が、三笠山あたりの景色を思わせるものがあれば通じないこともないが、いかんせんそうは受け取れない。また、「あをうなばらふりさけ見れば」の仲麿の歌は明洲でのことだが、仲麿と交際のあった詩人たちがはるばる明洲まで送ることもありそうにない。仲麿と交際のあった王維、包佶、趙驊、儲光義、李白など、それぞれに送る詩はあるがみな洛中でのことである。王維が仲麿が日本に帰るのを送る詩の序は、その文集の第二巻にあり、仲麿が玄宗の優遇を受け、儀王の友とされ、秘書監を授けられたにもかかわらず帰国しようとするところを「立派な人格がすでにあらわれていたが帰ることを思い、関羽は恩を報いてしかも最後には去った」という二句で、遙か後代のものまで心地よいものにするが、その文中にも詩集にある詩のなかにもこの連句と関係がありそうなものはない。強いていえば、仲麿を厚遇した玄宗は鞨鼓を非常に愛したということくらいである。だとすれば、この句を仲麿の面影とする解釈は通じない。鶉を聴こうとすることと安倍仲麿となんの関係があろうか。何丸の解も人を納得させるものではない。

 

  思うに、ここにある羯鼓はわが国の王朝時代や唐で使われた羯鼓ではなく、より時代が下がって、足利時代のころに羯鼓といわれたものを指すのだろう。同じく琵琶といっても、上代の楽琵琶、中世の平家琵琶、いまの世で使われている琵琶、その名は同じだが実物は異なる。本当の羯鼓として解釈しようとすると、ここの羯鼓は理解できない。足利のころに羯鼓といわれたのは「やつばち」といって、本当の羯鼓よりは小さく床を用いず、紐で襟に吊りかけるのは、搏拊という楽器のようで、二本の杖でこれを撃つ。形状や音響は羯鼓に似ているが、音楽の中心などではなく、玩具に近く、少年や遊び人などが手すさみにする。それゆえ謡曲の『藤栄』『花月』『自然居士』『東岸居士』『望月』、狂言の『鍋八撥』などに見えて、これを使うのは少年か道人である。ことに東山の雲居寺とこの羯鼓はどんな由縁があるのか知らないが、自然居士も東岸居士も花月もみな雲居寺にいるものである。『望月』の花若は少年であり、花月も老いてはおらず、藤栄は壮年の大名なので、一般には八撥を打つことはないが、わざと点出している。西武の『鷹筑波集』に「十六になる袖のやさしさ」「八撥を二度まで撃てる子供達」。また同書に「八撥を撃ちて踊れや十六夜」。これらの俳句を見て、徳川初期になお八撥を打つことが行なわれ、しかも少年などの手すさみであることがわかる。

 

 演劇では、『道成寺』に鞨鼓を打ちながら踊る場面がある。「打ちて踊れや」の句も誇張だけではない。八撥を打つには、首にかけて胸のあたりにあるものを二つの杖で打つので、肘は後ろに回り、手首は袖のなかにあるようになるから、「十六になる袖のやさしさ」という句に、その年頃をかけて、八撥を打つことをつけた。馬に乗るにはこうした手つきになるのが嫌われて、古い乗馬術の本には、手綱を長く取って、肘の後ろに回るのをやつばち手綱といって悪いこととしている。「袖に鞨鼓をならすらむ」は、鞨鼓を打つひとが自然にとる姿勢と、その年頃がまだ若く、袖長くやさしいこととを思えば、なんということなく解釈される。麿はただ若い人というだけのことで、つまり鞨鼓を打つひとである。「鳴らすらん」の「らん」は「也」ではなく、推量の意味である。秋風が寒い夕べ、鶉が鳴かないかと車を引いていく野の尾花の末に月が出て、空が明らかになると、ああ麿が月夜に、袖に鞨鼓を鳴らしているようだ、ということである。月は眼前の景色、鳴らすらむは月についての情である。あるいはこの句を、月が明るむにつれて車上の人が子供、または甥、従兄弟、侍童などを思いやると解するものもあるが、そこまで深入りして解するのはいかがなものか。前人の多くは麿という称、鞨鼓に心をとられて、非常に古い時代のこととして解したために、中垣ある左右の朝臣のことだといったり、安倍仲麿の面影などといった。属の鞨鼓はつまりはやつばちで、貞徳西武の頃は足利時代から引き続いてなお少年たちの手すさみであったことに思い当たらなかった誤りである。伊勢貞丈がやつばちを鞨鼓と気づかないで、八がら鉦だとしているのはいうにたらぬ誤謬である。