断片蒐集 48 マイケル・エイヤー/概念ー経験論

 

Locke (Arguments of the Philosophers)

Locke (Arguments of the Philosophers)

  • 作者:Ayers, Michael
  • 発売日: 1993/12/02
  • メディア: ペーパーバック
 

ロックが経験論の始祖とされ、教義上はまったく異なるデカルトと対話(現実にというか思想的に)することができた理由がわかる。 

経験論から概念—経験論への移行

ロックの認識論が早くに発展を遂げているなら、それはエピキュロスに帰せられ、十七世紀には早くにピエール・ガッサンディによって説かれた経験論から、概念—経験論といういくつかの点で経験論に対立する理論を組み合わせたものに移行したと言える。我々に伝わり、ガッサンディが提示し、発展させたエピクロスの認識論では、我々の言葉に意味を与える概念を感覚を通じて得ることと、理知と科学の出発点となる定義や公準を形作る命題的な知識を得ることとがはっきり区別されていないように思われる。どちらも、個別的なものを繰り返し経験することで得られると思われる。それゆえ、ガッサンディは我々の知識はすべて知覚的な知識に依り、「普遍的な命題からくる明証や確実性はすべて個別的な例からの帰納によっている」と主張することができた。他方、ロックは、その後期の思想に至り、観念の獲得と知識や信念の獲得との相違、帰納と普遍的、あるいは抽象的観念との相違により重きを置くようになって、知覚的な知識とは異なり、それとは独立したアプリオリな普遍的知識のことを考えることができるようになった。かくして、彼は、必然的な真理の直感的な理解を確実な知識の範例とするデカルトや、デカルトガッサンディ双方の友人であるマラン・メルセンヌのような哲学者に同意することができた。もちろん、ガッサンディのように、彼は、デカルトはよりもずっと感覚に重要な役割を、すべての観念の源泉、知識の「材料」であり、「直接的な対象」であるばかりでなく、いかなる推論からも独立した個物の存在の「感覚的知識」の源泉としての役割を与え続けた。だが、ガッサンディとは異なり、またメルセンヌに同じく、彼は「感覚による知識」が最高度の「明証」よりも低いことを認めたのである。

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 53

... 効率性 Efficiency

 

 正確な比率を危険にさらす。ある新しい朝食を発明するとき、身体の全体的なバランスにとって必要なある要素を取り去ることで、効率的に我々を喜ばすこともできよう。また、別の誰かが失われた要素を取り戻すべきであることを発見する栄養学を効率的に用いるに違いない。生物学的、歴史的な必然性から生じるものは、すべて効率的なものである。自由を過度に強調し、戦略的に義務の要素を無視する自由主義の支持者は、教会の考え方よりも効率的である(教会は権利と義務は同じ硬貨の表裏だという事実を強調したときに真実に近づいていた)。他方、経済的状況そのものが過度の強調をもたらすのに効率的であった(ある階級は強烈な堕落、争論、欲求不満といった副産物とともに宗教的な枠組みよって与えられた機会を捉えて力を得た)。それゆえ、効率性をもった状況の過度の強調は、自由主義者の側からの対抗的な過度の強調を必要とする。人間はすべてのことを一度に言うことはできない。かくして、その発言は必然的にある意味において「効率的」である。それはなにかに強い光を当てるが、その過程において他のものを影に置くのである。我々はこの誤った効率性を「斟酌」という対抗する効率性によって正そうとしている。

 

 暗黒時代のグロテスクな隠者は「効率性」の典型だった。宗教の「本質」は禁欲だと決定することによって、禁欲主義の<理論的解釈>に厳密に見合った生活法を形づくった。かくして、彼らはそうした理論的根拠がない場合よりもより「効率的に」禁欲的であることができたのである。「純粋な美」という理論は、十九世紀の美学的運動に同じような「効率的な」探求をもたらした。芸術とは、様々な密度と散らばりはあるが、「美」の要素をもつものだとされた。為すべきなのは、「美」を絞りだし、この要素だけで作品を仕上げることにあったのは明らかである。それゆえ、「純粋な形式」--「抽象における」美が探求された。

 

 「宗教」や「美」を「実際的で不純なもの」の働きよりもむしろ、純粋な孤立のうちにとらえようとする試みは、笑い猫が笑いだけを残して消えるという『不思議の国のアリス』に創意のある形であらわされている。それは「純粋な」笑いであり、最も「効率的な」笑いを可能にするものである。ある性質を孤立化し、それを全体とすることだけが為すべきことである。猫のない笑いだけを手に入れること。或いは猫から始めるなら、猫を笑わせ、猫だけ取り去ってしまうこと--もし実験を正確に行なえば、混じりけのない笑い、笑いの<笑い性>、「効率性」、抽象的な本質だけを手にすることになる。

 

 ゾンバルトは金銭の発達が人間の目的を合理化することにおいて「効率性」を証明する過程を示した。戦争はそうした「効率性」のもう一つの極端な例である。戦争では、国家の全生命は戦争に勝利するという目的のために組織化される。あらゆる問題はこの検証法に従って単純化される。以前には自由な発言の価値が<論じられていた>というのか。戦争の有効性はそんな問題を解決する--ウッドロウ・ウィルソンのような典型的なリベラルも「良心的兵役拒否者」の投獄に同意した。戦争の効率性は論争の効率性、法律家の権限のうちにもある。論争家や諷刺家は単純な価値基準で、ある要素を強調し、他を無視する。結果として、我々が彼の戯画の背後にある<関心のありか>を見て取り、どう斟酌するかを知っている限りにおいて、彼の戦略は世界の理解に役立つ。作品そのものにあらわれた比率をそのまま受け取るのではなく、計画された不調和であることを見込んでおくのである。

 

 ニュースが吟遊詩人たちによって、非常に「非効率的に」伝えらえた時期があり、その内容は非常に細かな規則によって決まっていた(例えば、<歌う>ことのできるものだけを<述べる>)。この想像するしかない状況はいまでは驚くほどの効率性で官僚化されている--そして、その副産物として、目的と手順の完全に新しい評価基準が生じた。それらは「規範」となり、我が「吟遊詩人」たちは「見出しをどうするか」で記事をつくり、文学はジャーナリズムと個人事業の枝分かれしたものとなった。ジャーナリズムそのものは無計画な哲学の一種であり、文学製品を最大限の速度でかき集める組織的な方法に発達した。低俗な新聞の歪曲は見て取れるが、<あらゆる>ジャーナリズムにおいて、効率化が取られ、歪曲が方法化されているので、手探りで当たらねばならないような場合もある。

 

 株式取引所の喩えを借りると、「有効性」は社会的問題に「売り買い」の商人として臨む者には素晴らしいものである。「長期にわたる投資」に関心をもつ者にはそれほど価値はない。別の言い方をすると、より繊細にすべての要素を維持していく「共生」よりは、ある要素を強調することで「生態学的な均衡」を壊してしまうのである。

 

 たとえ話で締めくくろう。

 

 テーブルの上には様々なものがのっている。幾人もの芸術家が異なった角度から、異なった光等々のもとで絵を描くところを想像しよう。ある芸術家がテーブルの上に<ノミ>を発見した。彼が主題を「根本的に変える」ことも考えられる。<新たな>発見物、ノミを強調して書くこともできる。他の芸術家たちが注意を集中しているような対象は曖昧にしたままで、彼は驚かせるべく小さなノミだけを描きだす。彼はこの場面の「新たな対象」を告げることとなろう。

 

 安定した状態で、充分長く生きたら、彼はノミについての興奮を失ってしまうかもしれない。自分の偏りを正し、テーブルの上の他の対象に正当な関心を向けようとするかもしれない。ノミを発見する以前に描いていた状態近くまでやがて戻るかもしれない。

 

 しかし、別の要因が介入してくる。例えば、市場の要因である。ノミを捉える彼の絵は市場価値を持つかもしれない。彼の発見は、交通信号のような点滅で注意を引くために、より売れるものとなるかもしれない(点滅する光は、つきっぱなしのものより広告や批評で気づかれやすい)。この「実績」のもと、彼は自分の発見を「官僚化」する。彼は自分の方法を<必要な変更を加えて>、「科学的な効率」のもと他の問題にも適用する。恐らく、ノミなどまったく居ないところにもノミを描き加えることとなろう(「見出しのことを考える」のが官僚化されると、小説家は一般的な腐敗を最大限の「効率」でもって描きだすことが可能になる。健全な人間関係を見ても、それを「超越して」腐敗を見て取ることができるようになる)。※

 

 

*1

 

 

 この場合、全く「中身が空っぽ」なわけではない。彼が最初にノミを描くよう駆り立てたものは持ち越されているかもしれない。かつてノミに酷い目にあって、それを忘れられないのかもしれない。或いは、謙虚なやつで、ノミと自分とを「同一視」しているのかもしれない(そして、「敷衍」によって、ノミの原理を他の低次の生にまで拡張しているのかもしれない)。

 

 だが、そこで芸術のノミ学派ができあがったとしよう。それは、こうした個人的関わりがないところで始まる。すべての問題に<外側から>取り組む。<衝動>を抜きにして、<手法>だけを取上げる。この段階で、「想像的なもの」は完全に「官僚化」される。この種の「効率化」はなぜジョーンズがいつも友人をジョーンズ主義に反対するといって責めるのか理由を説明する。

*1:

良質の新聞でさえも、全世界的な通信網を使い、個別の問題を伝えることで、ポオの物語を「官僚化」する以上のことをしているのかどうか不思議に思われることがある。

 とりわけ目立つのが恐怖の要素で、競争者と対抗して記事を「売ろう」とする者はなんとか記事をより不幸なものに仕立て上げようとするのである。かつて、ドラッグについての本のゴーストライターをしたことがあった--雇い主がすぐ教えてくれたのは、ドラッグを規制する提案に「最適」なのは、ドラッグによって破壊された世界を描くことだということである。あらゆる場所にドラッグの脅威を見いだすこと--そして、立法化が「緊急に必要」だとすること。こうしたことによって「ポオの物語の美学」がニュースを支配することになり、<あらゆる>ジャーナリズムを赤新聞にする傾向となる。

 このことに加えて、ニュースの断片的な性格がある。すべてが異なったところに分類されねばならない。各々の記事が一つの単純なテーマをもち、世界中のあらゆるものを独立したものとして扱わなければならない。友人に一言で言えるような料金に何かを見つけだすこと。抜け目なく記事にまで拡大すること。こうして、理想的なリポーターができあがり、その生涯には立派な木が多く切り倒されることで、ゆっくりと端的な言葉で言えることを素早く何百もの言葉で並べ立てる方法を学ぶのである。

断片蒐集 47 青木玉/江戸の女

 

 商家の下女が如来の化身だと見立てられたように、酒席の一場面を舞台の一場面として切り取る方の久保田万太郎もまた江戸的であり、遠い江戸の余香が立ち込めるようなエピソードである。

幸田文久保田万太郎

座は賑やかに沸いていた、向いの席に久保田万太郎さんがいらっしゃって、

 「あれ、幸田さんもう帰るの、もう少しいいでしょう」

 と声をかけて下さったのにお辞儀をして、出口の方へ行こうと、ぐるっと体を廻して立ち上がった、と大向こうから声がかけられたように、

 「ああいい取り合わせだ、如何にも江戸の女だね。振りの赤がきれいじゃないか」人の目が“振り”に集まった。びっくり仰天、脱兎の如く逃げ帰って来た。

 「芝居を書く方は怖いね。こんなお婆さんで取るところも無いものを着て出て行ったのに、ぎゅっと袂先おさえられたって気がした。<もみ>を付けていたことも忘れていたのに」

 

頼みになる拒絶をもとに人間は邂逅できるかーー椎名麟三『邂逅』(昭和27年)

 

邂逅 (1976年) (旺文社文庫)
 

 

 椎名麟三に関しては「深夜の酒宴」と「重き流れのなかに」その他初期の短編を数十年前に文庫で読み、教文館からでているキリスト教に関するエッセイ集の端本を読んだことがあるだけで、そのときには特に強い感動を受けたわけではなかった。しかし、心のどこかに引っかかっており、私の個人的な経験則によれば、読んだ途端に熱狂的になる作家というのはえてして熱狂とともに関心も薄れていくのだが、妙な気がかりとして片隅にあり続ける作家は、なかなかつかない薪の火のように、いったん火がつき始めると滅多なことで消えることのない存在としてあり続けるのである。昭和22年に発表された「深夜の酒宴」からいま読み進めている椎名麟三もまた私にとってはそうした存在になりそうであり、どの小説もいまのところすべておもしろい。

 

 第一次戦後派という観点からすると、私自身のこれまでの読書歴からして、フランス文学育ちということで、中村真一郎福永武彦など、日本語による定型押韻によるソネットなどを主張したマチネ・ポエティクに多少道草をくってもよさそうなものだが、実は第一次戦後派といって思い起こされるのは埴谷雄高武田泰淳野間宏であって、中村、福永両人の小説はそれぞれ何冊か読んでいるものの椎名麟三のような引っ掛かりを残すことはなかった。

 

 椎名麟三の初期の小説の舞台になっているのは、自由が丘、明大前、豪徳寺、などといった京王線小田急線の沿線であり、昭和20年台のこの周辺を描いた小説は、私が記憶している限りでは他に思いつかない。登場人物が高等遊民でも、学生でもなく、会社の勤め人や職人であることも共通している。彼らは一様に社会的底辺にかろうじて生存している。ほとんどの人間が愛することに絶望しており、死を考えている。

 

 登場人物の名前が冒頭にあらわれることも椎名麟三の小説の特徴であり、『邂逅』では「古里安志は、渋谷のガードの方へ歩いて行った。」というのが冒頭の文章であり、建築現場で働く安志の父親の平造が鉄骨の下敷きになり、片足を切断することになることから始まるのだが、安志にはけい子、時子、岩男という妹弟がいる。時子は胸の病気でほとんど寝たきりであり、けい子は知り合いの実子の兄の紹介で会社に勤めているが、その紹介の約束があやふやなものであることから、安定した生活を得るに至っていない。けい子は共産党員である確次と付き合い、党員である、あるいはあったらしい。実子は野原知也の妹であり、野原家は椎名麟三の小説には珍しく、親から資産を残された中流階級に属しているのだが、実はその資産もとうに食い潰しており、知也は完全に無気力なニヒリズムにおかされており、妻の沢子は自分でろくにものを考えられない人形のような女で、実子は自分の資産と自由とを混同しており、浪費を続けている。小説は安志、けい子、確次、知也、実子の五人を中心に進んでいくが、その各人が各人に向けて悪意と敵愾心を抱いている。ただ安志だけがその悪意を免れるときがある。例えば、安志と実子が二人で夜道を歩いているとき、安志は片足を痛めており、実子は二人で降りる石段が不安定であることを知っている。

 

実子は、なんとなく、安志の身体を坂道の端へ寄せるようにして数歩歩いた。安志の身体は宙にうき、それからはげしい勢で前へのめると、崖の方へ倒れ、棒でもころがしたように崖の斜面を五、六回回転した。実子は、その安志をじっと見下していた。黒いいも虫のようなみぐるしい恰好だと思った。両手で頭をかかえ、オーバーはまくれ上って、黒いズボンの貧弱な尻がつき出ていた。その尻のへんに土がついている。安志は、身動きもしなかった。彼は頭の痛みに耐えながら、暗い星空を見ていた。それはただの星空だった。彼は、ユーモアのあふれた神の微笑を感じた。彼は。思わず、笑い出した。

 

 

 確かに椎名麟三は昭和25年にキリスト教の洗礼を受けたが、神が救いとしてあらわれることもなければ、遠藤周作のように信仰が問題化されることもない。むしろ、神がより彼らの断絶を深め、先鋭化させる。結局安志の父は自らの悪意の帰結であるかのような死を迎え、知也は無気力なニヒリズムから脱出することができないまま自殺してしまう。けい子もまた生きていることの厭わしさから、荒川のなかに入っていくが、いつまで経っても水は膝の高さ以上に昇らず、尿を漏らしただけに止まった。兄が死んだ姿を見て精神的な失調状態に陥った実子は、安志に一緒に死んでくれるよう頼むが、彼は笑って生きていくんですよ、としか答えない。実子には安志は安志ではなく、単なる男になっており、その男から「何か頼みになる拒絶を感じ」る。キリスト教に回心する前から、椎名麟三の作品には、常に笑って生きることを促す人物が登場し、安志もその系譜を受け継いでいる。『邂逅』という表題は、最後の場面で、生き残った主たる人物たちが一同に会することから来ているのだろう。

 

確次、実子、けい子、岩男の四人は、往来の人々にいりまじりながら、めいめい遠くはなればなれになって、おたがいにひとりでいるように歩いていた。安志は、強い愛の衝撃を感じながらひとりひとりの顔を見た。みんなそれぞれ妙な顔をしていた。そして妙な一行だった。安志は、真剣な真面目な気持で、笑いながら大きな声でよびかけた。

「どうしたんだ。みんな神妙な顔をしているじゃないか。・・・・・・さあ、愉快に、一緒にたたかおうぜ。愉快にさ!」

 誰も、その安志の声に答えなかった。安志は、その四人の仲間を見ながら、このおれと彼等との溝は、絶対的なものではないと思った。それは、かえることが出来るのだ。彼は、微笑しながら、だまって近付いて来る四人を待っていた・・・・・・。

 雨が、ぽつりぽつりと落ちて来た。

 

 

 確かにこの溝は絶対的なものではなく、相対的なものかもしれないが、彼らは資産を使い果たしてしまった実子を含めて、みな無一文だといってよく、互いの互いに対する敵意が和解されたわけでもない。むしろ敵意の消耗戦のなかで、疲弊し切ったそれぞれがひとりであることを自覚した脆弱な連帯であり、人間の関係性、つまりは敵意だけではなく、媚び諂いなどのごく一般的な人間関係を欠いたなかで、それでも連帯が、邂逅が可能なのかという根源的な問いが投げかけられている。

断片蒐集 46 青木玉/生地とテクノロジー

 

 着物というのは最終的には生地を身に纏うことに収斂される。ほつれれば継ぎがあてられる。いま我々がまとっているのは手仕事ではなく、テクノロジーであり、そのため継ぎが決定的に異質なものとして馴染むことがない。

露伴の愛用品

 懐中物の財布は菖蒲革、小銭入れはいわゆるがま口がま口した口金のパチンとなるもので茶の裏皮、煙草入れと煙管入れは対の山椒粒大の相良繍で模様が一面に刺してある。これ等総て不用意に懐から滑り落ちることのないように選ばれた素材だ。一度水を通した手拭を八ツに畳んだ中に挟んで懐中すれば、いい加減なゴマの灰如きにしてやられる鈍智は踏まぬ、茶色好みの露伴先生は用心のいいところもあった。

 私の思い出す普段着の祖父は、いつも石摺りの着物で居たように思う。母はちゃんと垢づかない、時期に合った着物を用意していた筈だのに、他の着物の祖父は思い出せない。木村伊兵衛土門拳の両氏が撮った写真の着物もやはりこれだ。それほど好んで着ていたと言える。

 何度も何度も洗い張りし、内側には継ぎも当てられている。所どころ手当てしても目立つ傷もある。石摺りというこの布は、絹とは思えない丈夫な布で厚く織られ、染めた後に石で摺って布を柔らかくし、色もまた、摺れたところが、多少白くなって、染め上げた色目より濃淡がついて面白味が出るという。一見古ぼけ色の目立たない布だが、多分着れば暖かくしっかり身を包んで、見てくれのぺらぺらものより、どれほど安心感のある信頼のおける着物になることか。裏をみればこれまた普通の胴裏の布とはちがう太めの糸の地布である。石に摺られる布は、普通の裏地にすると、表布に喰われて摺り切れてしまうのではないか、己れも摺られ相手も摺る、何か恐ろしく、また切なさもある布だ。

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 52

... 自分の世界を「稼ぎだす」

 

 安逸をむさぼる暇などない。継承されたものはすべて新たに稼ぎださねばならない(さもなければ、疎外と堕落が始まる)。想像力なしに科学の教えを復唱する低能は稼ぎだしていないものを得ようとしているのであり、結果は落胆に止まる。人は自分の生を「官僚化」しようとする--たとえ部分的に成功するとしても、その過程は<彼にとっては>自己疎外ではない。それは彼自身の「先行するもの」に見合った「後続するもの」である。生の論理的に適切な完成である(想像的なものが種で、官僚化が果実である。「エンテレキー」における発達の二つの段階である)。しかし、我々は他者に自らの官僚化のある尺度を手渡す。手渡された者がそれを自ら「新たなものにする」確かな方法を見いださない限り、我々は継承においてそれを「失う」のである。官僚化は、「先行する者」が新たな「後続する者」のものにならない限り、不毛と死に等しい。

 

 <金銭>において官僚化される注目すべき洞察(抽象による簡略化で、<シンボル>の交換によって交易ができ、あらゆる商品を統一的な言葉、量的エスペラントでも言うべきもので「相関的な価値として定める」)は「自分の世界を稼ぎだす」という考えに最大限に「有効な」ものである。道徳性というのは基本的に、生産と配分の枠組みに根ざしているので(その「引力」は社会性の確固とした物質的側面から来ている)、資本主義の道徳性は金銭構造の安定性に依存していると同時に、資本家の必然として、常に金銭構造の安定性を破壊しようと脅かしている。それゆえ、「稼ぐ」というのは純粋に量的な考えになりがちである。

 

 かくして、「稼ぐ」ということと「疎外」との関係は、「雇用」と「非雇用」の平板な区別に単純化される傾向にある。しかし、「雇用」と「非雇用」は絶対的な対立ではない。それは単一の段階的な系列の諸相であり、そこでは人は常に多かれ少なかれ雇用され、多かれ少なかれ非雇用である。非雇用をより都合のいい「余暇」という名のもとに過ごす者は、自分の能力に充分見合った仕事を得ていない者のように、通常、神経症的な厳格さのもと自分の世界を「稼ぎだす」。正直な浪費家よりも、ギャングの方が「より十分な形で雇用されている」こともしばしばである。

 

 より広い意味における雇用の機会は、社会の座標がメンバーにとって最も根拠があるように見えるときに最上となる。そうしたときには、全体としての社会的目的との関係において位置づけることができるので、卑しい仕事であっても満足をもってすることができる。重要でない自分の役割を集団の目的に「同一化」する。そして、シンボリズムの架橋によって、自分の能力と機会とのあいだの「たるみをなくし」、自分を共同のアイデンティティに適合させる。かくして、主張と断念、行動と受動とが一つになる。社会そのものがばらばらである限り、それに比例して、こうした象徴的両義性の可能性は少なくなっていくのは明らかである。

断片蒐集 45 エイヤー/まがいものの世界のなかで

 

言語・真理・論理

言語・真理・論理

 

 こうした論理実証主義的な考え方には現在ではほとんど興味はないが、あくまで原理、原則を見出そうという姿勢には敬意を感じる。

意味のある文章

 

我々は、次のような場合、そしてただこの場合にのみ、文章は、任意の人間に対し、実際に意味を持ちうるものとする。その場合というのは、その人間が、その文章の表現しようとしている命題を検証する方法を知っている場合、いいかえれば、一定の条件の下において、どんな観察をしたら、その命題を真なりとしてうけいれることが、あるいは、逆に偽なりとしてしりぞけることが出来るか、を彼が知っている場合である。もし反対に、想定されている命題が真であると仮定してもあるいは偽であると仮定してもそのいずれの仮定も、彼の未来の経験の性質についての如何なる仮定とも両立するものであるようなものならば、それは、彼に関する限り、同語反復でなければ、単にまがいものの命題であるにすぎない。このまがいものの命題を表現する文章は、彼にとって、情緒的には意味があるかも知れないが、字義上からは無意味である。