ケネス・バーク『歴史への姿勢』 10

未来派の感傷的な受容

 

 「未来派」はこの潮流で重要な位置を占めている。というのも、マリネッティのような作家は決して幅広い人気は得なかったが、彼ほど「効力」をもたなかった諸運動の集中点、摘要となっているからである――そして、彼の発案は、断片的にあるいは薄められて現代の典型的な作家たちに受け入れられている。ある種未来派創始者とも言えるニーチェは、自分が好まない発展を無理して歓迎しているように思える。彼は基本的に世界が憎むべき方向に向かっていると見ていた――しかし、楽観主義と歴史主義を奉じていたので、時代を迎え入れ、時代精神と仲直りをするために「イエスマン」に、「代弁者」になろうとした。結果として出てきたのはある種の野蛮さであって、それは彼の弟子のシュペングラーにも明らかである。そうした野蛮さは未来派の「受容」の枠組みにも強い要素としてある。

 

 マリネッティは、彼が語るには、飛行機での旅行の間に作り直され、その出来事は「穴」を世俗的に幻視させ、彼を驚かせた。*こうしたシンボルについては後に十分に論じるので、ここではマリネッティの遠近法が発生するに至った三つの出来事に注意を向けるが、そこには文化の連続性の乱暴な切断がある。未来派以前のものはすべてホメロスの頃となんら変わらない――未来派とともに完全に新しいものが始まる。「自由な」変節に熱狂する彼は、自由詩ではなく自由な言葉を主張する。

 

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「韻律や統辞の限界を超えた完全に自由な宇宙の表現――感じること、見ることの新しい方法――運動における諸力の総計として宇宙を測ること」

 「自由な言葉は色、騒音、音を編成し、言葉と俗語、数式と幾何学図形、古語、歪曲され発明された語、動物の叫び、モーターの唸りの示唆に富んだ組み合わせをつくりあげる。」

 

 

彼と彼の流派は「比率の遵法を廃する」――彼らは「生に酔いつぶれる」が、彼らが熱意をもって描きだす生は「革命、戦争、難破、地震」であらわされる――彼らは動詞を強調する、形容詞や副詞は強力ではないからである――彼らはよい趣味にとらわれないアナロジーを求める。

 

 「例えば、ある動物を人間や他の動物と比較する者がいるが、それではほとんど写真である。より進んだ者はフォックステリアを銃と比較する。しかし、私はそれを沸騰する水と比較する。」

 

 それは「最大限の無秩序」、「物質に対する詩的なオブセッション」、感傷の廃棄、「電信的」、「振動的」、「速度と新しいものへの崇拝」のためである。醜いもの、「機械の支配」、「解き放たれた想像力」、工業的金融的ナショナリズムを讃美するためである。それは「調和のあるものに反対し」、「月の光、追憶、ノスタルジア、永遠、不死性」に反対する。

 

 

「我々のスタイルを人間化する代わりに、動物化、植物化、鉱物化、電気化、水化させようではないか。」

 

 

 

 戦争を賛美した最近のマニフェストは、未来派の受容のあり方がいかにムッソリーニのための人員集めに役立っているかを示している。戦争を賛美するために未来派に必要なのは、その恐怖を列挙することだけで、あとはそれを美しいものと呼べばよい(左側を縁起が悪いと考えていた古代ギリシャ人が、軍隊の左の側面を婉曲に「申し分のない側」と呼んだようなものである)。

 

 マリネッティの宣言はオペラ的な大げさな身ぶりとして読んでもいい(「qu'importe la victime si le geste est beau!」)。その上、マリネッティマニフェストはあまりにも多くのことが約束されている。芸術作品として具体化しようとしても必ず失速する。多分、十分寛容な言い方をすれば、彼のマニフェストそのものがそれが告知している芸術作品なのだろう。統辞論的な混乱(ジョイスが後に完成させたようなものだろうか)を支持しているにもかかわらず、彼ら自身は正統的な統辞法を守っている。それゆえ、彼らの「明快な観念」にある「混沌」がどんなものであろうと、彼らの姿勢は実行よりもその計画により力強くあらわれている。累積される秩序の力が引き出され得るときに無秩序への要求がより強いものとなりうる。かくして、マニフェストはその形式の効果(「公的な文法」)から利益を得ることができたが、マニフェストに答えて書かれた作品は得ることができなかったのである。

 

 マリネッティはどんな代価を払っても「肯定者」になろうとした。ホイットマンの残酷な戯画であるごとく、彼は手当たり次第のものを呑み込む食欲たらんとした。独創性を讃美することによって、彼の企図は無条件に反論を封じ込めた。「現代世界は病んでいる」と言う者があれば、「だがなんと完璧な病だろう」と答えられる。近年の風変わりな「ハードボイルド」派との親近性は明らかである。我々は両者(荒々しい思考)に感傷的な側面を見いだす。未来派は、最も基本的な種類の慰めを与えることができる。通りの騒音がうるさいって。それには無批判な騒音の崇拝をあてれば足りる。悪臭がする。それでは悪臭の「美」について論ずればいい。外見上は能動的だが、これは最も受動的な枠組みで、流れに押し流されることを決意することで肯定的な感情を得るという洗練された方法である。その枠組みとしての不完全性、一面性は決定的である。十分発達した受容の枠組みには常に差別が含まれている。しかし、未来派は歴史的な潮流をすべて呑み込もうとする大食いの企図だった。肯定を讃美する者として、支配的な権威のシンボルについても肯定してしまうことになる。我々がこの例を挙げたのはその「化学的な」純粋性のためである。ある潮流を完全に利用しつくしたので、同じ方向で彼らを越えることは不可能である。

*1:*飛行機というシンボルは、ミュリエル・ウケイサーの『飛行の理論』でも同じように描かれている。それはヴェルギリウスがダンテを地獄に導いたように、現代の恐怖の部屋の上を飛び、最終的には堅固な地上に戻る。このシンボリズムはフォークナーの小説のシンボリズムと対照的で、そこでは飛行機は人間を乗せたまま「湖」に墜落する。・・・「真実は井戸の底にある」、この「穴の雰囲気」をトーマス・マンは『ヨゼフとその兄弟』の最初の数百頁を使って小説的に引き延ばしている。