ブラッドリー『仮象と実在』 66

第十二章 物自体

 

      (宇宙を二つの半球に分けることは擁護しがたい。)

 

 ここまで、我々は実在に到達できないことがわかった。様々な方法で事物が取り上げたが、仮象以上のものを得ることに失敗した。どんなことを試してみても、調べてみると、矛盾していることが証明された。内的な統一に達しないものは、明らかに真の実在というには足りないのである。他方、混乱を我慢することに決めるのでない限り、満足して落ちつくことも不可能である。というのも、我々が思考し、どんなものであれある観点をとるならば、所与のものを越えることは必須のことだからである。しかし、一度機会を逃してしまうと、我々はまとめ上げる力をもつものにまったく出会わなくなってしまう。あらゆる観点は仮象を与えてくれるだけで実在は逃れ去ってしまう。それは常に我々を困惑させ、頑固に後退していくので、我々はそれを到達不可能なものと見なすことを余儀なくされている。それは我々とは異なる別の世界で発見されるもののように思える。

 

 我々はここで、万物についてのおなじみの見方、しかし理解の度合いが人によって非常に異なる教義に達する。この見方によれば(自覚しているかどうかはともかく)、万物は二つの領域、言うなれば二つの半球に分けられている。一方が経験と知識の世界で、いかなる意味においても実在を欠いている。他方が実在の王国で、知識や経験がない。別の言葉で言えば、一方にあるのが現象で、我々にあるがままの事物と我々にあらわれている限りでの我々がある。他方にあるのが物自体、あらわれることのない事物である。あるいは不可知の領域といってもいい。我々がそうした分割した世界に対する姿勢は大いに異なっている。我々は自分の問題に関係のないもの、関心を引き起こさないものは喜んで無視をする。無価値なものが壁に投げつけられれば嬉しく思う。あるいは、実在が我々が知るには余りに良きもので、混乱の真っ直中から触れることのできない輝きを放つものとしてあがめるしかないのを残念に思うかもしれない。我々は愚直にもこうした完全な隔たりを幸運なものと考え、最後には、完全な無知は宗教を妨げる疑念を取り除くものだと喜ぶかもしれない。我々がなにも知らないならば、崇拝に反対する理由も見いだせない。(1)

 

*1

 

 この考えはよく知られており、ある意味説得力もある。我々の知識が支配することのできない最良で最上の存在のことは知ることができないと感じるのは自然である。そして、恐らく多くの者にとってこの教義が意味しているのはそうしたことである。しかし、もちろん、ある明確な意味をもってそれが言われるとき、その言わんとするところはそういうことではなく、そうした意味でもない。というのも、それは我々の実在に関する知識が不完全なものだと教えてはくれないからである。この説が主張しているのはそうした知識が存在しない、不完全であれなんであれそれに関する知識など全くないということである。我々が理解する世界と物自体との間には堅固で動かすことのできない境界があり、その二つはどうしようもなく隔てられている。これが教義であり、そのもっともらしさは批判の前に消え去るものである。

 

 その馬鹿馬鹿しさはいくつかの方法で示すことができる。もちろん、不可知はその名に値するものかそうでないかでなければならない。しかし、もし本当にそれについての知識がないなら、我々はそれが存在するのかさえ知ることができない。それは「私の能力は私の庭だけに限られているので、隣家の薔薇が咲いているかどうかはわからない」と言っているようなものである。これでは無定見だろう。前章で述べた攻撃を使うこともできる。もしこの理論が真実なら、それは不可能でなければならない。それが真実である知識と、それが真実であるときの一般的条件とは調和させることができない。しかし私は、多分より平易な別の批判を試みてみよう。

 

*1:(1)私は不遜なことを言いたくはないが、スペンサー氏の不可知に対する態度は私には冗談にしか思えず、無意識のうちにこうしたことを前提としている。神を受け入れるべきなのは、単に我々が悪魔というものがどういうものか知り得ないという理由だけによる。しかし、私はスペンサー氏になんらかの首尾一貫した説を割り当てようというものではない。