ブラッドリー『仮象と実在』 189

[その偽物の形。]

 

 しかし、そうした事例をより注意深く考えると、それがまがい物であることは明らかである。というのも、(a)第一に、観念的内容は内部から動くことはないからである。自ら存在を通じて完成を求めることはないし、内的な必然性がそれを意味するものでもない。(1)そこには内在的な関連が存在せず、観念と存在との二つの側面に隣接関係が認められるだけである。それゆえ、妥当性を得るためには、第三の要素の媒介に基づかねばならず、その要素はどちらとも共存し、しかもそれ自体は外在的でなければならない。しかしこれでは、存在論的議論の本質は欠けている。(b)第二に、我々が考えている事例は、もうひとつの大きな欠陥があらわれている。実在の述語である観念は、ほとんどいかなる真理ももつことはできず、価値と実在の最低の次元以上に超えでることはない。観念がその存在に比較して、単により抽象的だと言おうとしているのではなく、虚偽だということである。というのも、この反論は、妥当ではあっても、比較的取るに足らないものだからである。観念から出発する議論が存在をあらわすことができたとしても、真理や実在をあらわすことはできない。他方において、望むところとは反対に、どちらの側にもきわめて重大な誤りをもたらす。主語も、あるいは述語も、それに割り当てられた本性をもっていない。主語は単に感覚可能な出来事ととられ、述語はその事実に含まれるひとつの特徴ととられる。そのどちらを仮定したとしても、議論は大いに誤ったものとなる。というのも、本当の主語とは実在であり、本当の述語とは、表向きは述語と主語となっているものに含まれるあらゆる性格を主張するものだからである。ある感覚可能な出来事のうちに存在するとされる観念は、述語であり、別の言葉で言えば、絶対を肯定する。そして、そうした述語が貧しい抽象であり、それゆえ、その本質が自らの存在とは異なるものによって決定されるとなると、不整合で、その固有の主語に矛盾することになる。端的に、我々はまがい物の存在論的証明を考えており、存在が実在ではないという結論に再び追いやられている。

 

 

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*1:

(1)それが続く限り、自らの破滅に向かうだろう。