ブラッドリー『仮象と実在』 200

[自己犠牲、自己肯定という二重の側面について。]

 

 別の言葉で言えば、私は自己犠牲と呼ばれるものに注意を促そうとしている。善は個的なものが自らの完成を実現することで、この完成はすでに見たように、調和と広がりからなっている。そして暫定的に、これら二つの特徴は合致しないだろう。本性の原材料を最高次の体系に変えること、あらゆる要素をこの対象に縦続する手段に供するものとして使用することは、確かに善に対する正当な見方である。他方において、追求すべき目的を可能な限り広げ、個的なものを散らし消散することで実現されるのは、確かに善である。自己を目指す、あるいはまた、より広範囲に包括的に発展していく個的な体系に従属することは、どちらも道徳的原理の一側面である。それらが食い違う限りにおいて、これら二つの追求は、一方が自己肯定、他方が自己犠牲といわれうる。しかしながら、いかにそれらが異なっているとしても、どちらも道徳的には善である。そして、抽象においてとらえると、どちらがよいということはできない。