一言一話 115
桑原武夫『文学とはなにか』
...文学と科学
ファーブルのように自然界の中で直接の観察をすることは、今日むしろ稀れであって(そういう意味で『昆虫記』は文学である)、多くの科学者はラボラトリで目盛りを読んでいるのだ。現実の社会、ないし自然に存在するものを直接に見るのではない。つまりガリレオのように塔の上からものを落としてみたり、フランクリンのように大空にタコを上げたりはしない。そうしたことは、むしろ今日の文学者がしているといえる。文学者は自己の世界観を導きの糸として、現実を観察し、また現実の中で実践することによって(実践によってしか見えないものがある)、集めた多くの経験を調整して、一つのまとまった経験をつくる。それは言語シンボルによって表現されるから、当然抽象性をもつが、しかし作品の結末が結論なのではなく、そこへの過程が作品なのだから、その点において一個の全体的な「もの」として、他の芸術作品と相通じる面をもつ。
総合芸術というのは小説の前提といった方がいい。