ケネス・バーク『宗教の修辞学』 21

X.モニカの巻

 

第九巻は、アウグスティヌス聖霊について考えることで完成すると言える。自分の息子は母の前に死んだのだったが、アウグスティヌスは母親の死というテーマでこの巻を終えるような叙述にしている。母親との神秘的な会話が詳細に描かれる章は、「彼女の死が差し迫ったとき」のことである。会話の状況を描く言葉についての注釈(我々の分析は、母親という動機づけが彼の聖霊に関する考えにおいていかに重要な要素であったかを示そうとしている。)永遠の沈黙を描く一節の翻訳。その節に読み取り可能な意味合い(単純な動機と洗練された動機を結びつけることで)。両親の観念から教会の家族という観念へと橋渡しすると考えられる文章。

 

 だが、おそらくは、第九巻になるまで、アウグスティヌスは、聖霊が彼の心理的編成のなかに最終的に織り込まれる過程を完成しなかった。我々が言っているのは、第九章、死の数日前の母親と交された会話である。

 

 それまでの章で、彼は「言葉の商人」という仕事を捨て去ったことを告げている。呼吸器障害のことを語っている(くわしく描かれていないので、それが過酷な回心と結びついた「心因性の病」であったかどうかはわからない)。(第九巻第四章では)もっともアウグスティヌス的なものの一つである並置「内的な永遠」(internum aeternum)について書かれている。彼は富裕な友人の地所に引きこもり、宗教について瞑想する余暇を得た。彼は詩篇に夢中になったこと、アンブローズの助言で、イザヤ書を勉強したが失敗に終わったことを書いている(この予言者はおそらくもっともアンブローズを魅了した予言者で、とアウグスティヌスは言っている、というのも、イザヤは後の異邦人の招集を予表しているからである)。そして、第六章で、息子の死について語っている。

 

 この最期の章は、純粋に形式的見地から見て特に興味深い。というのも、彼の母親は息子より前に死んでいるが(第九巻第十二章、アデオダトゥスが彼女の死を嘆き悲しむことを止めるよう命じられる箇所で知れる)、アウグスティヌスは自分の息子の死を先に語っているからである。この配列によって、彼は厳密に自叙伝と言える叙述の部分をアウグスティヌスとともにミラノからアフリカに帰る際に死んだ母親の主題で終えている。

 

 第八章のはじめで、彼は彼女の死を告げている。この章の残り、そして次の章の全部を使って、敬虔な死亡記事といった調子で、母の実直な性格を描いている。そして、第十章において、死後の世界について考え合う母との注目すべき会話を詳細に描いている。

 

 母が死ぬ日が差し迫っており(impendente autem die)、アウグスティヌスだけが彼女とともにいて、オスティアにあった家の庭に面した窓に寄りかかっていた。彼らは長い旅の後で疲れていたが、聖人の永遠の生について、この地上にある者はそのほんの僅かなりとも経験はしていないであろうが、それがどのようなものであるかを思い巡らせ、未来について手探りの(quaerebamus)思索をしながら、愉快な(dulciter)会話を交したのだった。彼らは大きく口を開けて(inhiabamus)、神の泉から流れる天上の水を受け止める(superna fluent fontis tui)。世俗的なことをすべて越え、「イドのなかへ」(in id ipsum、この究極的なイドがフロイト派のものとどれほど密接に対応するのか、あるいはしないのかは読者の考えにまかせたい)、考え、語り、歩き回っているあいだにも、彼らは内的に登りつめ(ascendebamus interius)、心の根源にまでたどり着き、そしてそれを越えて「絶えることのない豊富さの領域に到達する・・・」が、ここで、ほぼこのすべての語について、注釈のために立ち止まらねばならない。

 

 「到達する」はattingeremusである。思い起こすべきは(第八巻第十一章)、彼が女性という「慰みもの」から禁欲に転ずる前、語っているのは触ることや抱きしめること、また、触らないし抱きしめないことなのだった(adtingebam et tenebam…nec adtingebam nec tenebam)。先の一節にある言葉は同じことに関連していると考えるべきであり、第八巻で語られていることは、おそらくその少し前(第八巻第二章)アウグスティヌス詩篇144:5の神に向けられた語句、「山々に触れ、これに煙を上げさせてください。」をほのめかすことと関連している。「豊富」は乳房に関連したubertatisである。「絶えることのないunremitting」と訳した言葉は、ラテン語ではindeficientisという二重否定である。おそらく「不断のunfailing」と訳した方がよりいいだろう。この考えはより長い表現としては「永遠に覆い隠されることのない」などによって伝えられているが、マニ教と決別した後のことを再確認すれば、アウグスティヌスにとって、悪とは光の欠如のようなものであり、それ自体力のあるものではなく、実力に欠けたものである。次の節は神の知恵を食物と並置し、「真理の食物」(veritate pabulo)世界がそれを通じて創造される生命を与える知恵について語られている。しかし、この言及は永遠を語るための橋がかりの役割をしており、というのも、創造的な知恵は永久に時間の創造よりも先行しておらねばならず、創造されて生きる魂は十全な意味での永遠ではないからである。

 

 ロゴロジーの観点から見ると、次の言葉はこの上なく正確である。というのも、それらはほとんど気づかれないほどのやり方で、口の二つの働き、語ることと食べることとを融合しようとしているからであるdum loquimur et inhiamus illi。「我々が語っている間」(この文章は文法学者が「歴史的」現在と呼ぶものに転じているが、我々はそれを永久にいまであるnunc stans永遠の感覚と呼ぶことができよう)、「そして、それ(永遠の真理)に向けて大きな口を開けている間」、「我々は心すべてをもって’(toto ictu cordis)慎み深くそれに触れている(attingimus eam modice)(1)」。そして、適切に、聖パウロの文句「精神の最初の果実」(primitias spiritus)がほのめかされる。ここで三位一体の第三格が構造のなかに組み込まれたと考えられる。神学的な意味でのロゴスとしての言葉と、時々刻々と変わる言葉との正確な対比がある。そして続くのが、我々の目的にとってはそれ以上を考えることができない完璧な、仰天するほどの一節である。

 

 そこで我々は次のように言う。もし誰かにとって肉体の喧噪が沈黙であるなら、地と水と空気の像のすべてが沈黙であり、両極が沈黙であり、自らについて何を思うこともなく自身を乗り越えていく魂でさえ沈黙であるなら。もし我々の夢が、想像の広がりが、生まれては消えていくあらゆる言葉、あらゆる記号が沈黙であるなら。もしこれらすべてが誰かにとって完全に沈黙であるなら(というのも我々に聞くことだけが可能であるなら、あらゆるものは「我々は自らをつくりだすことはない、永遠にとどまり続ける我々をつくりだしたのは彼である」と言い続けるだろう)。もし多くを言ったとしても、何も言ったことにはならず、その耳を彼らをつくりたもうた彼に注意深く向けることになろう(そして、彼だけが言葉を通してではなく、まさしく彼自身を通して語るのであり、我々が聞くのは、肉体の言語でもなければ、天使の声でもなく、嵐の音でもなければ謎めいた例えでもなく、彼の言葉であり、我々は彼に彼自身を聞くのであり、我々が愛するのはすべてのもののなかにある彼である)。いまや我々はすべてを支配する永遠の知恵に達し、瞬く間にそれに触れる(attingimus)。もしこうした状態だけが引き延ばされるべきで、それとは異なるどんな思いも捨て去るのだとしたら。まさしくこうした状態だけがつかみ取り没頭すべきもので、それだけが永遠の歓びに包まれることになるなら、永遠の生とは我々が嘆息する唯一無比な認識の瞬間のごときものとなろう。それは主の歓びに入ることではなかろうか。いつそれはなされるだろうか。我々が再び生まれ、すべてが変わるまでは無理なのだろうか。(2)

 

 

 

 

*1

 

 我々はできるだけこの一節をなめらかなものにしようとした。というのも、この部分が、回心の直前の内的論争を描いた先に引用した箇所と完全な対照をなすものと考えているからである。ロゴロジー的には、根っからの言葉の達人が、究極的な変わることのないロゴスとしての言葉を、言葉のない状態と考える(言葉の本質を得ることで達する言葉のない状態)ことで巻き込まれざるを得ない逆説的な諸動機の結節点について際限なく思いをこらす誘惑に誘われるところだが、この言葉のない状態は、反対に、声高に語られる際には大量の新鮮な空気の補給が必要とされるであろうような、息もつけないような長い周期的な文によって伝えられるのである。我々の推測では、このように考えられた沈黙は、その表現にこの上ない言葉の達人の洗練を必要とするのだが、にもかかわらず、心理学的には、「幼児期の」痕跡である諸動機に結びついている。その地点において、偉大なる洗練と偉大なる平易さが出会いうるのだろう。

 

 この章は、これ以上生き続けることは望まないというモニカの言葉で終わっている。明らかに、彼がまさしく描いたように、息子が回心してその目的な達成されたいま、こうした状況下での彼女の死後の生についての確信は大きなもので、かつて言葉の商人であった者が雄弁に物語った言葉が尽きた後の希有な沈黙のなかで永遠に参入したいと熱心に思っていた。繰り返すが、この章は明らかに彼女の死のしるしのもとに書かれており、そのことはこのすぐ後に告げられており、この会話があったほんの数日後のことである。我々はこのことが彼の聖霊についての考え方に動機づけとなる意味合いを与えたと考える。

 

 要約しよう。想像が漠とした幼児期の名残の記憶に関わっている限りにおいて、それは彼の記憶、あるいは彼と関わる彼女の記憶ばかりでなく、母親自身の幼児期と関わる記憶を含んでいるだろう。

 

 いずれにしろ、それは三位一体についてのモチーフに関連する。彼自身の心的秩序に関する限りでは、回心に続くこのエピソードは、庭園でのヒステリックな涙と同じように、回心の過程の基になったもののように思える。ここで、明らかなのは、食物としての知恵への言及が「精神の最初の果実」という考えに変わったとき、「最初」ということについての我々の特殊な関心が、三位一体の第三格がいかに根源的な形でここにあらわされるに至るか留意するよう我々を促すのである(もし読者が、聖霊が「文法的には」男性であるにもかかわらず、母的な姿、「愛」という意味合いをもった「前聖母崇拝」的な要素を含みうるという我々の推論を受け入れるなら、こうした愛は、彼が「もてあそびもの」あるいは「慰みもの」である愛人とは正反対のものだとした「禁欲」と同じ範疇に属するものとなろう)。ここで彼の教義の主要な部分が完成したと思われる。

 

 母の死にあたっての悲しみを描いた部分で、二つの注目すべき細部がある。第一に、以前に近しい友人の死について語ったときにあらわされたのと同じ筆致があることである。それは、と彼は言う、自分と母とのあいだに一つの生が形づくられていたようなものだったが、それがいまでは離ればなれになってしまった(et quasi dilaniabatur vita,quae una facta erat ex mea et illius)。そして、彼が「自分の悲しみを悲しむときのもう一つの悲しみ」(alio dolore dolebam dplorem meum)があり、それゆえ「二重の悲しみ」に(duplici trisitia)襲われると語るとき、再帰的なパターンについての一つのヒントがある。しかし、この巻の最後には、この分裂は明らかに新たな統一の原理に席を譲り、両親についての言及から始まる注目すべき文において、続いて「我らがカトリックの母」において、父たる神のもと兄弟として結びつくことが語られ、市民という観念を政治的なものから宗教的なカテゴリーへと変容させることで終わるのである(この用語の発展は『神の国』において建築学的な完成に達する)。

*1:

(1)この一節では、modicaがモニカのちょっとした変形であることに注目してもらいたい。

(2)ちなみに、この力強く独白めいた一節が、「我々は語った」(dicebamus)という彼の冒頭の言葉によれば、アウグスティヌスと彼の母との間でどうやって発展していったのか理解しがたいという読者がいるなら、次の段落の最初の言葉が答えになるだろう。そこには「私はこう語った」(dicebam talia)とあり、続けて自分の言葉は「我々が」語った(loqueremur)ことの要旨を伝えるものでしかないと説明されている。