ケネス・バーク『宗教の修辞学』 15

Ⅳ.中間部分、要約

 

(改宗の瞬間における「開く」という語の発生率。転向者のグループ。アウグスティヌスの改宗についての見解。改宗と倒錯が併置される。)

 

 アウグスティヌスの回心は『告白』全体のほぼ数学的中心で重大な局面を迎える。前の章(第八巻第十一章)では、いまだ「宙づり」(pendebam、少し前ではsuspendebar)の状態であり、「慰みもの」であった女性たちのことを考えることと、いまや彼の前に「姿をあらわした」(aperiebatur)「清らかな威厳に満ちた貞潔」が、(パウロが『コリントの信徒への手紙』3:5で忠告したように)彼の不浄な部分を「殺してしまう」よう命令する。そして、次の章において、最終的な動機づけの変化が起こり、「開く」という戦略的な言葉が三度用いられる。最初に、遠くのどこかから子供の声で「取って読め」(tolle,lege)というのを聞き、それを彼は天から聖書を開く(aperirem)ように命じる声だと解釈する。次に、彼はそれを開く(aperui)。最後に、忠実なる「僕」のアリピウスが、アウグスティヌスの回心の直後、すぐに同じ実験をし、同じような結果を得るが、異なった一節を通じてであり、それをアウグスティヌスに示す(aperuit)と、彼はそれを天からの彼に向けた勧告だと解釈した。

 

 次の巻では(第九巻第七章)、この言葉は奇跡との関わりで二度にわたって使われており、神はアンブロシウスに幻視によって二人の殉教者の秘密の埋葬場所を知らせた(aperuisti)――それに加えて、盲人の眼がその棺桶にハンカチでふれた後開いた(aperti)という不思議が述べられる。

 

 十分予想されるように、この著作は回心を中心に展開するので、vertの系列が特に活発になっている(adverse,diverse,reverse,perverse,eversion,avert,revert,advert,animadvert,universe等々)。回心の重大場面にさしかかった章では、アウグスティヌスを「回心させる」神のことが語られ(conversisti enim me ad te)、彼の母親の悲嘆は歓喜へと「変わり」、彼がその肉体によって孫を与えたよりも、より切実でより簡素ではあるが、より豊かで「滋味に富んだ」(uberius)ものが与えられたのだと語られる。

 

 驚くべきことに、またおそらくは意味深くもあるだろうが、「変える、回心する」という語が始めてあらわれるのは(過去分詞のconversusという形であるが)それは彼自身ではなく、神に適用されている。その用法は、神が人間に「向く」限りにおいて人間が神に「向き」得るというアウグスティヌスの予定説の考え方について手がかりを与えることになる(人間は自らの自由意志によって神から顔を「背ける」ことができるにしても、神が人間から顔を背けるのだとしたら、人間の回心は人間とではなく神とともに始めねばならない)。この点についてのアウグスティヌスの確信は、彼が信じることのできなかった瞬間と信じることのできた次の瞬間(彼自身が認めうる限りにおいては、自分自身の意志の働きを介在させることなしに)の相違を経験した事実からきている。何か新しいものがどこかわからないところからきた――変化は単にアウグスティヌス自身の忍耐力によるものだという者があったとしても、彼はそうした忍耐は、神が既に忍耐という恩寵を与えてくれたときにのみ可能なのだと答えるだろう。

 

 いずれにしろ、アウグスティヌスは自分の告白が神の慈悲に向けたものであり、彼を嘲笑うかも知れない人間(non homo,inrisor meus)に向けられたものではないことを言っている(第一巻第六章)。しかし、たとえ神が彼を嘲笑うにしても、と彼は言う、神が彼の方を向いている(conversus)なら神は憐れみをかけてくれるだろう。

 

 こうした嘲りへの言及は、我々を別の方向に向けてくれる。アウグスティヌスはユーモアのある人間ではない。まず最初は眠るとき、後に目覚めたとき(dormiens primo,deinde vigilans)に笑うことを学ぶ幼児について語っているが、他の二箇所を除き(見落としがあるかもしれないが)『告白』で笑いは嘲笑と同じ意味なのである。in(inrideoあるいはその変化形であるirrideoの)は内面性ではなく、敵対関係に関わる。先に進むにつれ、多くのこうした用法に出会うことになろう。

 

 しかし、我々の中心的な関心事は、「回心」と「逸脱」との対照に関わる。この点に関して言えば、第八巻で回心の「分水嶺となる瞬間」が訪れたときが、第二巻において梨を盗むことと(この行為は彼によれば、単なる不正ではなく「原理のおける」不正であるので本質的な逸脱だと考えられる)対立するものとして扱われるべきである。かくして、『告白』では十六年の年月によって隔てられているのであるが、最終的な回心は不正についての章と並べることによって強調することができる。

 

 しかしまず最初に、我々は最終的な局面に至るまでの、第八巻第七章において雪崩となって解き放たれるまでの主要な動機づけの要素を分類するよう試みてみるべきだろう。