ケネス・バーク『宗教の修辞学』 20
IX.中間部分(回心、転回、急変)の詳細
投票、購買、質問表、劇での「意志決定」。劇に例示される「意志決定」と「回心」との相違。アウグスティヌスの回心と逆の意味で類似している『オセロー』。「回心」の二つの意味。回心とよこしまさとの関係。第一章:その序章としての性質。二つの写本に見られる相違の「三位一体的な」批判。第二章:改宗したヴィクトリヌスの例。第三章:改悛についてのもっとも一般的な見解。第四章:ヴィクトリヌスの改宗に関連した更なる考察。第五章:葛藤する二つの意志というテーマが導入される。第六章:異教社会での惨めな仕事と献身的なキリスト教徒との対照。第七章:高まる内的葛藤。第八章:アウグスティヌスは庭園に引きこもる。意志の衝突をめぐる言葉の混乱。我々の論旨を補強する論旨を援用する幾つかの理由。第九章:「意志」についての言及を織り込んだ激しいスタイルと「命令」についての燃えあがるような言葉がすべて引用される。第十章:アウグスティヌスが脇道に入り、マニ教を不条理なものとして反駁する。この論理的操作がいかに心理学的目的に役立っているかについての試論。第十一章:愛人と理想化された聖母のような人物であるコンティネンティアとの間で「宙づり」になったアウグスティヌスの状態。第十二章:危機的瞬間。愛人がコンティネンティアに取って代わられる。内的な優柔不断が矛盾へと変わる。(三つの主要な方向性、マニ教、ペラギウス派、ドナトゥス派への敵対についての付記。)回心の更なる詳細。アリピウスの回心が続く。モニカに伝えられた知らせ。「神によって」なされた回心。
386年、アウグスティヌスは三十二才になる。彼の問いかけのゆっくりとした進展を見てきた我々は、事態が重要な局面に至る第八巻を考える用意ができた。
現在、「意志決定」について多くのことが語られている。しばしば、決定は投票、購買、質問への回答、蓋然性のもと危機管理をすることなどに例えられている。
あるいは、慣習的な劇では、登場人物がある行動をするかどうか論じ合い、最終的に、自分の運命、その運命が何であるかはこれから発見しなければならないのだが、そうした運命を決める選択をするときに、決定の緊迫した瞬間が存在する。たとえば、『マクベス』の第一幕の終わりには、まず
やってしまえば、それですむというのなら、早くやってしまうに越したことはない。(小津次郎訳)
から始まってマクベスのためらいとマクベス夫人のせっつきがあり、最期の言葉にたどり着く。
よし、決心した。身体じゅうの力をふりしぼって、この恐るべき仕事に当るのだ。さ、行こう。もっともらしい顔つきで、皆を欺くのだ。偽りの心が知っていることは、偽りの顔で隠さねばならん。
これに対応するような「意志決定」の瞬間を『オセロー』の第一幕の終わりに求めるなら、イアーゴーが「オセローの耳をだます」計略を決定する場面がある。その表現は、イエーツの詩「神の母」で受胎告知について述べた部分を思い起こすと倒錯的に響く。
愛の三重の恐れ 耳のくぼみを通って
落ちていく揺らめく炎
『ハムレット』では、それにふさわしく、通常は第一幕の終わりにある意志決定の瞬間が第二幕の終わりにまで遅らされている。
劇によって私は王の良心をとらえよう。
しかし、我々はここでもしそれを決定と呼ぶことができるなら、もう一つの決定に関心を持っている。五幕の劇で通常第三幕にあるような展開である。意志についての強い強調にもかかわらず、また神学的論争への法外なエネルギーにもかかわらず、アウグスティヌスは、回心の決定的瞬間において、なにかが既に決定されていたと感じているように思える。第三幕はある新しい性質の動機づけが加わる地点である。そして、その後いかに活発なことが行なわれようと、その過程は上に引っ張り上げられるというよりは下に転がり落ちるようなものとなろう。おそらく、第一幕の終わりに対応するような決定の瞬間は第五巻の終わりに述べられていて、そこで彼はカトリック教会の洗礼志願者になる決心をしたことを告げている。(ラテン語ではstatuiで、「status」や「statute」、また複合語の「constitution」のもとになった言葉である。ここで彼は始めて「しっかりとした立場」をとる。)
『ハムレット』に対応する瞬間を求めるとすれば、劇中劇という詭計によってハムレットが最終的に王の罪を明らかにし、新たな動機づけの条件が揃ったところにあたる。『マクベス』ではバンクオウの亡霊が現れてマクベスの席に着くが、マクベスとそしてもちろん観客以外には見えない場面にあたる。『オセロー』では、オセローが最終的にイアーゴーの嘘を信じてしまうところにあたる。
さあ、いっしょに行こう。俺はうちに帰って
あの美しい悪魔めをすぐにも片づける
工夫をする。
ここから新たな力が彼のなかに解き放たれる。(オセローが自分の疑惑を保ち続ける大きなエネルギーは、イアーゴーからの刺激が必要だったわけで、アウグスティヌスの「恩寵」についての見解がここでもある程度当てはまる。だが、同時に、オセローは夢遊病者のように行動しているのではなく、「自らの性格において」行動している。彼の行動は彼自身である。実際、催眠術にかかった者が術者の暗示に機械的な従順さで従うのとは対照的に、オセローはイアーゴーが偽善的に彼にするなと頼んだことをするのだ。)
我々の類比では、オセローの疑惑は回心の後のアウグスティヌスの確信と逆の形で対応している。オセローの疑惑に基づいた行動は、アウグスティヌスが司教と論争の生活を送るなかで「自由意志」を使ったのと逆の形で対応することになろう。イアーゴーがオセローに向けた決定的なものとなった暗示は、回心に向かう途上でのモニカの役割と逆の形で対応することとなろう。デズデモーナを殺そうという決心は、アウグスティヌスがその愛人を捨てる決心をしたことに逆の形で対応する。あらゆる登場人物とその運命を形づくる劇作家の役割は、摂理を定め、あらゆる運命を決定する創造者としての神の役割に対応するだろう。オセローがイアーゴーの間違った解釈によって「回心」し、イアーゴーの更なる刺激がオセローが行動をやり遂げる「助け」として必要であったなら、神が人間の方を「向いて」くれる限りにおいて、人間は神の方へ「向く」ことができるという考え方に逆の形で対応していると言えよう。
類比が効かなくなる重要な地点は、イアーゴーがオセローにその性的相手を捨てるよう仕向ける「母親像」に近いという事実がある。しかしながら、類比が壊れるこの地点は、それ独自のある特殊な倒錯を含んでいる。我々の類比の対称性がさらに崩れるのは、イアーゴーはまた、回心におけるアリピウスの立場のパロディーだという点にある。というのも、イアーゴーがオセローを導くにもかかわらず、彼はオセローに単なる手下という印象しか与えないからである。それゆえ、彼はその偽善的な誓い、「私はずっとあなたのものです」においてアリピウスをパロディー化する。
「回心」という言葉自体ある種の曖昧さをもっている。しばしば我々はそれを一つの信仰を捨てて別の信仰に入ることだと考える(聖パウロがダマスクスの途上で劇的な変化を遂げたように)。しかし、既に信仰をもつものに対して態度をより厳正に変える回心もあり、既に信者として参加している宗教を聖職者として研究するよう「召命される」よう感じる場合がそれである。(旧約聖書での「回心」は典型的にこの種のものである。)疑惑の要素が一夫一妻制の愛情に固有の「所有構造」である限り、イアーゴーの暗示に対するオセローの反応は、旧約聖書的な意味での「回心」、既にそこにある動機を強化することに逆の形で対応することになろう。それがオセローの個人的な疑惑のうちに明らかになり、一夫一妻的な状況そのものには潜在的なものとして暗黙のうちに置かれているなら、新約聖書的な「回心」に逆の形で対応することになろう。(ちなみに、イアーゴーは非序に強い悪魔的な役割であるが、劇自体は「マニ教的な」ものではない————というのも、イアーゴーは、劇全体の「善」に寄与することにおいてのみ創作者によって存在が許されているからである。)(1)
第八巻に戻り、我々はできるだけ各段階の形式をとりだして考えてみよう、純粋に神学的な観点からすると、そうした抽象は内容を軽んじるように感じられるかもしれないが。
第一章。決定的な始まり。称讃から始まる。次に、(ヨブへの)言及があり、神の言葉(verbatua)が彼の胸に素早く突き刺さる。(「言葉」と「ロゴスとしての言葉」の中間にある用法である。)幽閉されているという意識が次に浄化の方向に進む。彼の心は清められねばならない(mundandum)。しかし、彼はすぐに幽閉のテーマに戻り、彼が通らなければならない道の狭さ(angustias)、彼が抵抗する狭さについて述べられる。これは再生の問題を含んでいると言える。次に長老の一人であり、彼を導いたシンプリシアヌスについて述べられる。(我々は彼を「父親のような」存在というよりは「祖父のような」存在と言えるだろう。というのも、アウグスティヌスによってpaterneとして受け入れられていたアンブローズがシンプリシアヌスをut patremとして愛していたからである。)
次に、特別に解決すべき問題がある。彼は世俗的な栄誉への信仰はなくてしていたが、女性にはいまだに固執(tenaciter)していた。パウルが結婚を一段階低い状態として許したことを思い起こし、彼はあこがれをもって宗教的貞潔を考えていたのである。
次に来るのが、庭での危機的瞬間において何が起こったかについての我々の理論にはきわめて重要なものとなる一節である。彼は危機の瞬間以前に既に到達していた場所について要約している。この世にあるもので神のあらわれを見て取れないようなものは空虚なものとして自分はもう超越している(transcenderam)、と彼は言う。そして、神の観念に神的な言葉への信頼を結びつけたという。「私はあなた、我々の創造者を見いだし、神とともに、一なる神とともに、それによってあらゆるものを創造したところの言葉を見いだす。」(inveneram te creatorem nostrum et verbum tuum qpud te deum tecumque unum deum,per quod creasti omnia)。端的に言うと、ここまでの文章で述べられているのは三位一体の最初の二格である。
我々はここまでテウブナー版のテキストに従ってきた。しかし、別のテキストでは、「そして、精霊とともに」(tecumque cum spiritu sancto)と加えられており、三位一体のすべての格が挙げられて終えられている。
以前に示したように、「回心」一般と「特殊な三位一体についての回心」の区別が可能だという考えに行き当たると、二つの版の顕著な相違は頭を悩ませるものとなる。精霊と愛との同一視を強調したアウグスティヌスの観点に立って我々はこの問題を見ることになる。
この解釈によれば、第八巻の序章で、いまだ女性との問題が未解決であったときにも、アウグスティヌスそこで立ち止まり、キリスト教の教義についてどこまで進んでいるかを述べている。彼は、他のあらゆる実体がそこから生じるような決して腐敗することのない実体の観念を形づくった。つまり、彼は自然は本質的に悪だというマニ教の教義を捨て去っていた。彼は神と神の創造的言葉(端的に言えば父と子との関係)との関係という考えを形成していた。三位一体の第三格への言及は、その部分の回心は第八巻の後半に位置づけられているので、この部分では無視されている。そして、第三格への言及は、通常のアウグスティヌスが三位一体を強調していたことを心にとめていた後の筆写者が書き加えたことも十分考えられるし、単に見落としによって省かれたとも考えられる。
おそらくこの問題が解決されることは決してないだろう。いずれにしろ、既に父(potestasとしての)、子(言葉あるいは知恵としての)、そして精霊(愛としての)への対応がいかに異なっているかを問うたにしろ、言葉は常に挿入されるし、常に削られるので、この点は容易に我々の注意を逃れ去るのである。読者が三格すべてが発展のこの段階において述べられるべきだと主張したとしても、第八巻が多くの点で十分明らかにしているのは、庭園での危機にともなう動機づけの変容にはとりわけ、アウグスティヌスの愛と同胞愛、エロスとアガペー(エロティックな感情と親子、兄弟の愛着や情け深さなどに関わるものの相違)との関係が含まれているという事実である。その証明は写本間の相違に左右されるほど脆いものではなく、どの版にも共通する証拠に基づけることができる。
同時に、第八巻の最初の章の序章的な性格に関連して、他の二つの細部を心にとめる必要がある。(1)彼自身以前は「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することも」(ローマの使徒への手紙1:21)なかった者たちの仲間であることを言い、ヨブ記を引用する、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と。しかし、ラテン語はecce pietas est sapientiaである。我々は既にアウグスティヌスにとってsapientiaの意味の広がりがどのようなものであるかについて述べた。同じことはpietasについても言える。ラテン語にある強い子としてのという意味を理解するためには、ヴェルギリウスのpius Aeneasを思い起こし、ローマ人に一般的な秩序の観念には家族の忠誠の観念が融合していることを理解すればいい。(2)この章はマタイによる福音書13:46の商人の例え「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」がほのめかされている。よこしまさと回心との章を並べることで、第二巻、四巻で、アウグスティヌスが自分と自分の共謀者たちは「豚に投げつけるために」盗んだと言ったのを補完していると考えられるのではないかと思うようになる。第二巻に豚があり、第八巻に真珠があるが、両方あるのがマタイによる福音書7:6「真珠を豚に投げてはならない」である。
第二章で進展が起こる。ヴィクトリヌスの例を巡って進むが、彼はしばらくの間キリスト教徒であることを秘密にしており、祖父のようなシンプリシアヌスの勧めに従い(ヴィクトリヌスが「嘲りの的」になったあと)信仰を公に宣言した。ヴィクトリヌスは異教徒のなかでは高い評価を得ていた。彼は元老にも教えており、ローマのフォーラムには彫像さえあった。当然、彼は、「卑下のくびき」、「十字架の恥辱(opprpbrium)」に従うことを公的に宣言することで自分の立場が危うくなることを恐れていた。以前のよこしまな模倣のテーマは、「回心の」模倣と呼べるものにとって変わられている。(ちなみに、神とロゴスだけが第一章の議論にあるという推論は、アウグスティヌスがプラトン主義者の著作を読んでいることを、そのなかには「あらゆるやり方で神とその言葉が忍び込んでいる」が故に歓迎したとあらわされているのがシンプリシアヌスだという事実によって少々補強される。ラテン語の動詞から我々はそれを「遠回しに」得るのである。)
第三章は悔恨の単なる形式についての考察だと言える。迷子の羊を見つけるこの上ない喜びは、喜びの強さはそれに先行する苦痛と相関的だ(ubique maius gaudium molestia maiore praeceditur)という一般的な弁証法的原則に関係している。
第四章で、アウグスティヌスはこの考えを更に一歩進め、ヴィクトリヌスのような著名な市民の回心は、多くの者に与える影響力の故に特に重要だと述べている。誇りは高貴さと結びつき高貴さは権威と結びつく故に、悪魔はより裏をかきやすい。第二巻にあった互いに熱中してよこしまなことをしていた思春期の団は「互いに火をつけ合う燃えさかる」(fervefaciunt se rt inflammantur ex alteruto)集団を考えることに取って代わられている。アウグスティヌスの修辞学者としての巧妙さは、特にこの章の冒頭にあらわれている。息継ぐ間もない急転直下の攻撃であり、その効果を見るには文をいくつにも分けて翻訳するのがよいだろう。
主よ、来てください、
行動してください、
我々の眼を覚まし、思い起こさせてください。
燃えあがらせ、つかみ取ってください。
我々を愛させてください。
我々を走らせてください。
叙述のその他の点ではむしろ瞑想的に進むのだが、ここでは緊急性が告げられている。(1)
第五章は、ヴィクトリヌスを「真似ようとする」燃えさかるような欲望で始まっている(この欲望は、結果的には、第二巻で彼が非難したような模倣の根本的な修正である)。アウグスティヌスがこのとき自分と同一視しようとしたのが社会的位置の高い改宗者だったことも思い起こすべきだろう。彼が異教の修辞学の教師という仕事から、神のための「自由な時間」をもつ(occasionem vacandi tibi)状況に移ることを考えていたのは明らかである。そして、「連鎖」、よこしまさが欲望に導き、欲望の放縦が悪い習慣(consuetude)となり、習慣が強迫行為(necessitas)となると論じたあとで、彼はヒステリー的な涙の発散に終わるような葛藤のテーマを導入している。この段階での闘争は自分自身のなかでの二つの意志の戦いで、その二つはどちらも自分のもので、古いのは「肉体的な」もので、新しいのが「精神的な」ものである(古いものと離れることで、彼は無償に神を崇拝し、享受することができる)。しかしながら、彼はいまだ変化のときが遅れていることを表向きは述べている。
第六章では、異教の修辞学者という仕事、「語る力を切り売りする」仕事へ(ego vendebamdicendi facultatem)の嫌悪を繰り返す。これに対して彼は、砂漠の神父たち、特にアントニウスの話を対抗させている。ポンティティアヌスがアウグスティヌスとアリピウスがパウロのコロサイの信徒への手紙を読んでいるのを見つけ、三人で宮中の無味乾燥した生活を論じた章でも言及されている。
第七章は「転じる」という考えの強い意味合いから始まっている。ポンティティアヌスが、神が彼の向きを彼自身に「向け変えた」こと(retorquebas me ad me ipsum)、神と彼とが向かい合い、アウグスティヌスが彼のまなざしを逸らそうとしても(avertere)、神は再び彼の前に立ち、彼のまなざしを放さないのである。遅れのテーマが続き、「貞節と節制」を求めるが、「いまはまだ」(noli modo)と付け加えられる。ポンティティアヌスが話している間、アウグスティヌスは「すさまじい恥ずかしさを感じて」苦しんでいた。そして、ポンティティアヌスが去ったあと、彼は精神的な鞭(sententiarum verberibus)で自分自身を打ち据える(flagellavi)。
第八章では、彼は「健康を害し、死にそうである」(insaniebam salubriter et moriebar vitaliter)。その症候は、自分の失敗を恥じて逆上し、常にはない暴力がアリピウスを非常に面食らわせた。アウグスティヌスは近くにあった庭園に引きこもる(abscessi in hortum)。(1)「私も」といった言葉に忠実に、アリピウスがすぐその後に続く(pedem post pedem)。そして、二十行のあいだに、「意志」という言葉が、似たような響きをもつvalentとvulsiという語とともに形を変えて十四回あらわれ、その間アウグスティヌスは、身体の諸部分は意志に従って動いているのだが、それは意志が自らの意志で従うのとはまったく異なるという事実に悩まされ、自分自身と戦っていた。
ちなみに、この意志の強調は、アウグスティヌスがここで彼自身を三位一体の第三格に関連づけるような動機に既にして巻き込まれていることを十分に示している。第十三巻の十一章を見れば、彼は人間精神の「三位一体」について語っている。存在すること、知ること、意志すること(esse,nosse,velle)。そして、『三位一体論』第十五巻第二十一章を見ると、彼はあからさまに人間の意志を愛と同義語で、精霊に比較されるものとして扱っている。
おそらく次の章(第九章)は、この時点でのぎざぎざした文体を伝え、「意志」に付随して「命令」という語がいかに突然燃えあがるかを示すためにも全文を引用するのがよかろう。
この怪物はどこから来たのか。そして、なぜ。あなたの慈悲が光を与えてくれるなら、アダムの裔である人間の罪と薄暗い悔恨のなかに答えを見いだせるのかどうかおたずねできようか。この怪物はどこから来たのか。そして、なぜ。精神は肉体に命令を下し、それは即座に実行される。精神は自ら命令を下し、抵抗を受ける。精神は手に動くよう命じる。それはすぐに従われるので、どこで命令が止んだのかほとんど知ることはできない。だが、手は肉体だが、精神は精神である。精神は意志するよう精神に命じる。だが、精神がそれ以外のものでないなら、語りかける相手はいない。この怪物はどこから来たのか。そして、なぜ。意志しなければ命令もしないであろう存在、つまり、意志することを命じても、命じたことをしない存在。しかし、それは全身をもって意志しているのではなく、全身をもって命じているのではない。というのも、それは様々な意志に応じて命じているに過ぎないからだ。そして、命じられたことがなされない限り、それは意志しない。というのも、意志は意志以外の何物も存在しないことを命じるからである。しかし、それは全身をもって命令しない。それゆえ、命令は命令とならない。というのも、それが全体的なものでないなら、既に存在しているものであろうから、あるべき命令とはならないだろう。従って、部分的には意志して、部分的には意志しないというのは奇怪なことというより、心の病であり、真理とともにすべてが生起することなく、悪習によって押し曲げられるのである(consuetudine)。それゆえ、二つの、どちらも完全なものではない意志があり、それぞれが他方に欠けたものをもっている。
第八巻の単なる展開の形式からみて、十章の突然の展開について何を言えるだろうか。詩篇の引用(「あなたの存在によって彼らを滅ぼしたまえ」)から始め、アウグスティヌスはマニ教への攻撃に取りかかり、それを「我々の内部にある善と悪との二つの異なった性質の戦い」のような葛藤をもたらすものとしている。むしろ、と彼は言う、我々は各自一なるものであり、自分自身の内部で戦っている(自分自身の罪に対する罰があり、アダムらか受け継がれた原罪があるように)。悪は「自然な」ものではなく、我々の意志の産物である。
アウグスティヌスはここで、もしマニ教の考え方に従うなら、人間は彼がもっている願望の数だけの「本性」をもつことになると示すことで、不条理を引き起こすものとしてマニ教を反駁している。しかしながら、形式的な観点からみて興味深いのは、このマニ教に対する突然の攻撃が第九章の難局から彼を越えて進ませる助けとなっていることである。論理的には、「命令」と「意志」との葛藤は以前と同じように足りない部分があるように思える。しかし、心理学的には、マニ教に対する怒りというはけ口が、突然すべてが一つになったかのように感じられるであろう決定的な瞬間に彼をより近づけることになる。
ある意味、おそらくは、対立する運動が統一された力となることは戦争に見られるものであり、異なった利害関係をもつ国々が共通の敵への抵抗という点でまとまるようなものである。しかし、なにか別のものがここには含まれているように思われる。というのも、もし彼がいまだに解決すべき女性問題をもっており、彼の女性への「悪しき」執着が「教義上」かつてのマニ教徒としての考え方に結びついているなら、この時点での彼の特殊な反駁の形式は意味深いものともなり得る。結果的に、彼は単に彼らの立場を「反駁した」のではなく――もしマニ教の立場を完全に認めるなら、一人の人間に、相反する願望に従って数多くの「本性」があることになる、と示すことでそれを「分解して」しまったのである。
いずれにしろ、この特殊な時点の特殊な議論にある特殊な形式的意味合いを読者が認めるかどうかはともかく、この章は、マニ教的な、もともとある「善」と「悪」との区別を我々を上方に(superius)引きつける永遠と下方に(inferius)引きずり下ろすそのときそのときの関心との区別に置き換えることで終わっている。(1)
第十一章は、宙づりの状態に置かれているという考えを繰り返し強調しているあいだにも、きわめて重大な変容を詳細に述べている。彼は既にスローガンを変えている。いまや彼は「いますぐ、為されるべきだ!」と言っている。章の最後の部分での「転回」の言葉はcontroversiaであり、自分対自分以外の何ものでもない心のなかでの論争である。だがこの章では、なにかに触られ、掴まれてはいても(adtingebam et tenebam)、触り、掴んではいない(nec adtingebam nec tenebam後のためにこのことを強調しておく)宙づりの状態が詳細に描かれ、愛人への言及から始まり(「慰みもののなかの慰みもの、虚栄のなかの虚栄」)、それが神を夫としてもち、「子どもたちや歓びを生みだす多産な母」に人格化された「禁欲」への賛歌に変わる著名な一節がある。彼女は「励ますような嘲りで彼に笑いかけ」(inridebat me inrisione hortatoria)、ここで笑いが好ましいものと考えられている三番目の用例となるわけだが、他の二例と同じく、子どもと母親の関係においてのみそれは好ましいものとなるのである。確かに、もし彼がいまや捨て去ろうとしているたわごととは正反対な、そんな母親の子どもになることができたなら、母の望みを叶えるために長い道のりを行き、回心して、神を父とすることになろう。彼は禁欲が彼に呼びかけ、不潔な身体を克服すべきだと熱心に説いている(obscurdesce adversus inmunda illa membra tua,ut mortificentur)あいだにも「慰みもの」の言うことを聞いていたことを大いに恥じた、と言う。そして、彼は「宙づり状態に置かれた」(pendebam)。
第十二章、そして最終章に決定的な瞬間が訪れ、「すさまじい嵐が起き、土砂降りの涙となった。」(aborta est procella ingens ferens ingentem imbrem lacrimarum)ここでのラテン語の動詞は、そこから「堕胎」という語が由来する事実から明らかなように、出産をあらわす強い副次的な意味がある。
既に見たように、普通の言葉がロゴスとしての言葉に取って代わられ、知的な側面(「知恵」)での回心が既に成し遂げられていたことで、多くの可能性が一点に絞られていった。しかし、いまだ解決されていない「愛」の問題が残っていた。そしてこのことは、愛人に代表される肉体による誘惑一般が、神を夫とするコンティネンティアのたったひとつの精神的で、威厳に満ちた母親像に取って代えられるまでは解決され得ない。そのときまで、三位一体の第三格の問題は解決されないだろう。また、そうした人格は、聖霊と絶対的なるもののうちに抱懐され、母性愛の原理に例証されるような聖なる母という二つの身分にまたがって立つことができるだろう。
優柔不断があったとしても、マニ教に対する怒りが結果的に、争い会う願望に関しての内的な難局を解決する助けとなったように、それを論争によって解決することができた。第十一章の内的な論争は、後のペラギウス派やドナティウス派との戦いに著しい外的な論争に取って代わられる。(1)
彼は一人で涙を流し切り抜ける方がよりいいことだと感じていた(solitude mihi ad negotium flendi apitor suggerebatur)。そこで、彼はアリピウスのもとから、少し離れたイチジクの木に向かった。そして、しばらくの間叫び声を上げると、彼の信仰は運命的に「なぜいまではないのか」(quare non modo)に変わり――ここでの「なぜ」という語の響きが彼に特有の語「探る」quaeroにいかに近いかに注目することが正当化される。
そのとき、彼は性別の定かではない子供の声が繰り返し「取って読め」(tolle,lege)と歌っているのを聞く。第四巻第三章で、彼は、詩人かなにかの本をでたらめに開け、自分に当てはまる文がたまたまある場合それで運命を占うような者たちのことを嘲っていたが、いまでは大いに調子が変わって、最初に眼にとまったローマの信徒への手紙13:13-14に深く心を動かされる。
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
この文とともに、彼の心いっぱいに彼を守る光が満ち、疑いの影がすべて消散したようだった(cum fine huiusce sententiae quasi luce securitatis infusa cordi meo omnes dubitationis tenebrae diffugerunt)。
この章の残りの部分は我々の目的にとっては完璧なものである。第一に、忠実な「僕も」のアリピウスが同じ実験をして、特に彼に当てはまると感じられる一節に出会い、即座に回心する。(彼の文はローマの信徒への手紙14:1、「信仰の弱い人を受け入れなさい。」であった。まさしく彼の頼りなさが突然に新たな堅固さの基盤を形づくるこの出来事にはなにかすばらしい整合性がある。)次の段階。アウグスティヌスとアリピウスは、一緒にこの知らせを母に告げるためにでかけた。(五つの言葉からなるラテン語の文では、そのうちの三語がinで始まっていることに注目されたい。Inde ad matrem ingredimur,indicamus.)この巻は、アウグスティヌスを自分の方に振り向かせる神(conversisti enim me ad te)について言及され、母の悲しみを歓びに向け変え(conversisti)、彼が結婚して子供をもつことより、より充実した(uberius)、より切実で純正な歓びをもたらしたことをある種要約して終わっている。
ところで、アウグスティヌスの動機の理論に関連して、回心が神によって為されたことは再び指摘しておく価値がある。意志の重要性について強調したことで、彼は内部の変化が外部からの変化に変わった(あるいは、より正確に言えば、「より深い内部からもたらされたかのような」となろう)という事実に特に敏感であった。彼は多くのことを成し遂げ、多くのものを欲しており、多くのものを望まないことを望んでいた――しかしいま、彼は向きを変えられているところである。動機づけの質について感じた違いは、自分を越えた何らかの力が彼の向きを変えるためにこちらを向いているのだと彼に確信させたに違いない。
彼は、旧約聖書の預言者が言いあらわしたことを自分のこととして感じた。「どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。」(convert me et convertar————エレミア書31:18)
*1:(1)なぜ我々はかくも多くの時間と努力を費やして回心をよこしまさとの関係でとらえようとするのか問われるかもしれない。答えはこうである。第一に、アウグスティヌス自身二つの「転回」の相違を明らかにしており、そうした企図が見受けられる。第二に、犯罪の多くはゆがんだ宗教性と考えるとうまく分析でき、一般的な教会に行くぐらいの信者は、回心や倒錯のようなより厳正さを求められるものとは違い、ある種の社会性として分析できるだろう。『反対陳述』という私の最初の本では(トーマス・マンとアンドレ・ジイドについてのエッセイ)、「良心」と「堕落」はWechselbegriffeとして扱えると考えた————そして、この考え方を捨てる理由が見つからない。次のエッセイでは、なぜ罪が「秩序」の本性に本質的なのかの「ロゴロジカルな」理由を体系的に考えることとなろう。
*2:
(1)Age,domine,fac,excita et revoca nos ,accende et rape ,fragra,dulcesce:amemus,curramus.最期の二つの後は、結果的には「愛する」ことと「走る」こと同一視しているかのように思える。関連する箇所が、ウルガタ聖書の主要な翻訳者の一人であるジェロームの書簡にある。ジェロームは踊っている少女のなかに自分がいる幻想(choris intereram puellarum)と天使のなかで癒される幻視(videbar mihi interesse agminibus angelorum)とを対照している。そして、天使たちが雅歌の一節「あなたの流れる香油のように、我々はあなたを慕っています」を引用することを想像している。そして、ラテン語には、currentem instigare「既に熱望しているものを更にあおり立てる」という言い回しがある。また、マーロウの『ファウスト博士』に引用されたオヴィディウスの有名な一節には、恋人たちが「夜の馬」に呼び出され、lente,lenteと走る。つまり、アウグスティヌスの「意志」の性質が変容するのに対応して、欲についての観念も危機的な転回を迎える。
「走らせてください。」とはつまり、「動かしてください。」であり、それはつまり、動機づけをください」ということで、動機がここで決定的な形であらわれる。ここでも、ジョイスの『肖像』第四章にある顕著な変化、スティーブンがロゴスとしての言葉から単なる言葉へと転じ、新たな召命に向かおうとするときに謎めいた姿であらわれる小鳥のような湯女を見たとき、
「天なる神よ!とスティーブンの魂は冒涜的な喜びで叫んだ。彼は突然彼女から身を翻すと、流れを渡っていった。彼の頬は赤くなっていた。身体は燃えるようだった。手足は震えていた。どこまでもどこまでも彼は歩き続けた・・・」
数行あとには「潮が変わり目に来ている」ことが告げられる。
*3:
(1)第四章、十二章で、彼はキリストを世界から「引きこもる」(abscessit)と同時に引きこもりはしない存在として語っている。
*4:(1)この区別は第十七章の「ロゴスとしての言葉への回心」で思い起こされるべきだろう。
*5:
(1)ペラギウス派は、マニ教への対立の他の側面を表わすような対立者となるだろう。マニ教は悪を欠乏や「食」ではなく、実体や原理として扱うことで重きを置きすぎている。他方において、ペラギウス派は、「原罪」の教義を低く見ることで、贖罪の過程におけるキリストの仲裁者としての役割を軽いものにした。結果的にこの立場はキリスト教教会にかかっている重要な力点を脅かした。ドナティウス派の方は、教会人の個人的な美徳を過剰に要求することで教会を脅かした。教会という役目の効験は独立したものとして示されるべきだった。罪人によって営まれたとしても、正確に営まれればその役目は効果的なはずで、エクス オペレ オペラートであらわされるように、効験そのものが教会なのである。アウグスティヌスの立場は、正しい薬を処方すれば正しい効果があらわれるはずで、それは医者がたまたま犯罪者だとしても関係がないと主張する現代の医者に比されるだろう。
要約するとこうなる。創世記から、アウグスティヌスは自然にあるあらゆるものは本来的に善であるという基本的な教義を得た。キリスト教の教会としての組織づくりの創始者であるパウロからは、アダムの堕落の結果としてある人間の本性の腐敗と、それに応じて必要となったキリストの贖罪的な犠牲を強調することを得た。
これ以後、彼は相反する願望に悩まされるときはいつでも、マニ教と戦うことができた。個人の意志の重要性が強調されて、キリストの役割を必然的なスケープゴートとしてより低く見積もり、その結果キリスト教の教義を組織化する際の中心軸を脅かすような場合には、ペラギウス派と戦うことができた。個人的な美徳を強調するあまり、それぞれが人間的弱さをもつ教会人の組織としての教会を危険にさらすようなときには、ドナティウス派と戦うことができた。
しかしながら、反ドナティウス派的な立場をあまりに強調することで、彼は、「戒律を守ることは不可能である」という結論(後にルター派によっても強調されることになる)に脅かされることになろう――そして、こうした立場は、人間の堕落に対する神の解毒剤としてキリストの犠牲をきわめて重要なものと見なす考えの助けとなったが、人間の本性が本来的に悪の原理を有しているというマニ教的な見方との戦いについてはさほどの重きが置かれなくなった。しかし、こうした難局はすべて、内的な争いと感じられるよりは、敵対する教派との論争として外部に向けることができた。こうした言葉をめぐる戦争は、ロゴスとしての言葉によって「愛」の問題を解決することで治まったように思える。