ブラッドリー『仮象と実在』 243

[間違いと錯覚。]

 

 すべてが間違いであるがすべてが幻影ではない。我々の観念が実在と同一ではない限り、それは誤りである。その相違が我々の本性において衝突を起こす限りにおいて、それは幻影である。内的なものであれ外的なものであれ、経験が我々の見解と衝突し、無秩序な混乱と苦痛を引き起こすところでは、我々は幻影について語ることができる。それは我々の観念と衝突する出来事の道筋である。さて、一面的で部分的な真理という意味では、誤りは我々の存在に必要なものである。実際、いってみれば、それ以外の何ものも我々の必要と関係しうるとはいえないし、それ以外の何ものも真理の目的に答えることはできない。そして、我々の不整合な有限な生の多様な側面に合わせるためには、多様な部分的真理の形を取る様々な誤りが必要となる。そして、我々が理解する限り、事物が別様であり得るなら、有限な生は不可能となるだろう。それゆえ、我々は常に誤りとあり続けねばならないし、それはある量の幻影を生みだす。それ自体自律的ではない有限な存在は、時間的な諸出来事の偶然世界のなかで多様な側面を実現しなければならない。それゆえ、観念と存在は正確に対応することはあり得ないし、この対応の欠如はある程度の幻影を意味せざるを得ない。全体的に、生とは失望と欺きだと証明する有限な魂があることも悲しいことながら認めねばならない。おそらく、ある瞬間、ある点においては、この結論を迎え入れないものは誰ひとりいないだろう。しかし、一般的には、そして主要な点において、生は幻影だということは合理的には維持され得ない。もし、一般的に、また大体において、我々の観念が出来事によって答えられるものならば、有限な存在として、我々が期待する権利を持つことは確かである。幻影がそこここに存在するとしても、全体は幻影ではないと我々は答えねばならない。我々にとって、感情的に無ではあり得ない絶対的な経験を得ることに関心を持っているわけではない。結局、宇宙はあらわれの背後に隠れているのか、我々と戯れているのかどうかを知りたいのである。我々がより真であり、より美しく、よりよく、より高次のものを見いだしたとき――それらは実際にそうなのか、あるいは実在においては別様のものであるのか。別の言葉で言えば、我々の基準は宇宙によって所有されていない間違ったあらわれなのだろうか。これについては、一般的に、躊躇なく答えることができる。あらわれ以外のどこかに実在は存在せず、我々のあらわれにおいて、我々は実在の主要な本性を発見することができる。その本性はつきることはあり得ないが、抽象的には知り得る。真にまた実際上、宇宙そのものの一般的性格はあらわれの相対的な価値として我々には区別される。我々は間違うが、価値と実在の判断基準として世界の本質的な性質を使用している。より高次の、より真の、より美しい、よりよい、より実在的な――それらは全体として、我々にとって価値があるように、宇宙においても価値がある。全体において、存在は我々の観念に対応していなければならない。というのも、全体においては、より高次なものは我々にとって一つの実在のより大きな量を意味し、その外部ではあらゆるあらわれは完全に無であるからである。