C・S・パース「科学の理論について」 3

 こうした主張は極端な場合、間違いよりも悪いものとなる。論理は悟性の働き、精神の行為、知性についての諸事実などとはまったく関係がない。このことはカント派たちによって繰り返し示されてきた。しかし、私は更に一歩進み、論理学について完全に非心理学的な観点をとるべきだということ、そしてそれを既に確立された観念を完全に覆したりすることなく行なうことが必要である。この目的のために、次のような三段論法を書いてみよう。

 

あらゆる征服者は肉屋である。

ナポレオンは征服者である。

∴ナポレオンは肉屋である。

 

これは書いた私にはそれ固有の論理的性格を持ったものである。読んだあなた方でも同じだろう。明日読もうとそれは変わらない。黒板に消されずに残っている限り、誰が読んでも同じ性格を持ち続けるだろう。では、この論理的性格は思考の形式であろうか。私がこれを書いたときの私の思考はあなた方の思考とは異なり、これを二度目に読むときのあなた方の思考はいまこれを読んでいるときと違うだろう。思考は数多くあるが、その形式は一つである。黒板に書かれていることは同じままだからである。それゆえ、書かれたものがこの形式を持続的に決定づけていることになる。形式の持続的決定づけには実体と偶然性の関係をあらわす定義が含まれている。それゆえ、論理的性格とは我々の思考同様、少なくとも黒板の上に書かれたものにも属している。この推論において、少なくとも三つの意義ある反論が存在する。第一に、黒板の文字が拭き消され、論理的性格の同じものが再び書かれたとき等々。そのとき、形式は記憶のなかにあるのだろうか。私はこの反論もそのすべての帰結も認める。だが、この反論は論理的性格が思考に、特に属しているのではないという私の論点からは外れている。第二の反論は、書かれたものが論理的性格をもっているにしても、それは理解され考えられる故にもっているのだ。これもまた、私は完全に認める。同じように、その文字は白い。白さがチョークに内在しているのは間違いない。だがそれらは人に見られる限りにおいて白い。そこには十の言葉があり――十の書いたものの寄せ集めがある。だが、それが十であるのは、心的な過程において我々が十個の対象を区別したからである。実際、精神がそれを考えることができないなら、どんな形式も無用でしかない。形式は主体あるいはと同様、対象あるいはITによって決定されている。しかし、物質を構成するのはITであり、事実、物質は純粋で単なるITと定義され、類似した実体という言葉は絶対的なITと定義される。それゆえ、考えられることによってしか形式があり得ないという反論は、対象をまったく捉え損なっている。第三の反論は、思考の形式とはこれやあれやの個々の思考に関わるものでなく、一般的思考の形式を意味するというものである。一般的思考とは、事実、思考の種類であり、その一般性においては考えることのできない抽象物である。この反論にも私はほぼ同意する。私が証明しようとしているのは、心理学的な性格をもつカント風の定義は本質的なものではないということにある。二つの見方の間にはほんのわずかな矛盾以外相違は見あたらない。心理学的見方は、そうした形式は思考でのみ実現し、言語が思考に本質的だとする。非心理学見方は、形式とは、内的であれ外的であれあらゆるシンボルの形式であり、それによってのみ思考が可能になる。つまり、私は論理的形式は既にシンボルそのもののなかで実現していると言っているのである。心理学者は、シンボルが理解されたときにのみ実現されると言う。

 

 もし二つの見方がかくも近しいものなら、なぜ新たなものが請われるのだろうか。その利点とはなにか。私は三つあると答える。第一に、より完璧な哲学である。科学の概念は科学に異質な概念が含まれるべきではない。たとえば、一般的に受け入れられている観点に従えば、空間は外的感覚の形式である。もしこれが真なら、幾何学を外的感覚の形式的法則についての科学と呼んでも間違いではないだろう。しかし、幾何学は広がりを、心理学的あるいは存在論的性格と何ら関係のない対象と見ている故に、これは悪い定義である。同様に、論理学はシンボルと思考とを区別する必要がない。あらゆる思考はシンボルであり、論理学の法則はあらゆるシンボルにとって真だからである。