ブラッドリー『論理学』33

 §36.過去の記憶、未来の予測は、明らかに単なる想像とは区別される。前者においては、知覚にあらわれた実在への指示がある。事実への関係を含むがゆえに真であるか偽であるかの判断をもつ。しかし、想像はこの指示を欠いている。前に見たように(第一章§14)想像されたものが真であると判断されたものより強いことがあるかもしれない。単に空想したものの方がよりこれ性をもっているかもしれない。記憶しているものよりもより否応がなく特殊な細部が含まれているかもしれない。しかし、欠けているのは、それを「これ」に結びつける同一性の点である。そうした環がないと、それは系列の外側に外れるに違いない。

 

 一般的に、我々は力のある細部と強い特殊性を事実のしるしととり、出来事の系列にその場所を探すのは本当である。しかし、場所が見つからなければ、想像された事実は決して我々に確実なものとならない。夢の映像は非常に明確なものであることもあるが、その映像の内容が知覚と結びついた出来事の系列と結びつくことを拒むのであれば、その観念を捨て去ることはできなくとも、結局はそれを単なる幻影として類別する。

 

 もしここで心理学の脇道にはいるなら、いくつかの難点と多くの興味深い問題を見いだすことだろう。我々は一度ある内容で実在を指し示したら、一般的にそれで再び指し示す傾向にある。それがいつのことになるかはわからないが、<いつか>起ることはわかっていたと我々は言う。そして、多分、そうした観念は単なる想像よりもより力強く豊かな細部をもっていると考えがちである。それは誤りであろう。そうした観念を印づけているのは力強さでも細部でもなく、我々には捉えることのできないぼんやりしたなにかである。それは所与の「これ」の内容によって追い払われ、それを曖昧に越えでていく「これ」を指し示す一般的観念かもしれない。または、観念や感情の無意識的な要素で、あるはっきりしない仕方で想像されたものと事実とを同一化する助けとなるのかもしれない。というのも、実在とのつながりになんらかの明示的なものが必要だと想定するのは間違いだからである。曖昧で我々が気がつかないような感じ、どれだけ注意を向けても意識のぼんやりとした全体と区別のつかないようなものが我々が真実と虚構とを分ける際の基礎として役立つこともある(§33)。我々が再び思い起こさなければならないのは、つながりの地点というのは、いわば我々の内的な自己の内にあり、外側の系列にあるわけではないことである。想像された虚偽が最終的に信じられたとき、それは常に外的な事実とある種直接の関係をもったためだというわけではない。実際には、我々が自分自身にもつ習慣的な感じに同一化したのだろう。そして、こうした幻影と真実との合流点は、しばしば我々の心のなかで両者を混同させてしまう。しかし、ここではこれ以上この議論を続けることはできない。

 

 §37.要約すると、真実と想像を区別するのは観念のシンボル的な使用ではない。想像は個別的なイメージに限定されはしないからである。知覚においてどこで始めて推論があらわれたのか、また分析判断はどこで総合判断になるのか言うことが難しいように、多くの想像において我々は論証的な要素があることを認めるだろう。我々は誤って、円の観念はイメージに過ぎない、と言うことがあるかもしれない。しかし、千角形の観念となると我々のイメージの方が失敗することがすぐ明らかになる。抽象的関係の観念はいかなる判断もなしに心にあることは明らかである。しかしながら、これは完全にシンボル的な内容であるが、(仮言的判断が入り込んでいなければ)純粋に想像的なものである。それは我々の心にあるイメージの存在から引き離されているが、別の実在にくっついているのではない。