トマス・ド・クインシー『スタイル』7

 だがなぜであろうか。このどこにでも共通で、我々が見るところではごく当然に思える欠点から国を挙げて免れている原因は、免れているという事実と同じくらい我々の注意を引く。この欠点とは、想像するに、二つの条件があるときに避けがたい。第一に性急さであり、第二に技術の欠如である。フランス人も隣国人と同じ程度にはこの同じ欠点に陥りやすいに違いない。どんな魔術を使ってこの欠点を避け、あるいは結果的に中和しているのだろうか。秘密はこうである。どの国にも増して生まれつき快活であるフランスは、おしゃべりの国であり、文章はおしゃべりを原型につくられている。他の国では贅沢品である会話は、彼らにとっては必需品である。知性においても社会性においても彼らは口語的である。従って、フランスでは、方向の定まった機知を使う者、誰かに<向けては>話すが仲間と<一緒に>話さない者は認められないし、言うことを聞き入れられないということが起こる。最高の才人は会話の公平さを守らねばならず、<社交の>楽しみのためにある<サロン>の人々の前で自己主張や講義口調でもしようものなら、人非人として即座に押しつぶされよう。ド・スタール夫人が、その砕けた英語でコールリッジについて語ったときに描いてみせた「独白」はフランスではある種の完全として認められることからも遠く、病気としてさえ理解されていない。この種の無責任な話と言われることをする者、絶え間なく話し、聴衆の意見は考慮に入れず、反対は受けつけず、議論をしようともしない者は、英国ではその名にRiverがつけられ、時には必要ともされる。Labitur et labetur in omne volubilis oevum.ドライデンの楽しい詩句では

 

「彼は澱みなく話し、そして話すほどに、これからもずっと話し続けるだろう」

 

 だが、この話が単に活発な動物精気によって維持されているだけで知識の裏づけがなく、ヒュエ大主教の強烈な皮肉によればおしゃべりの下痢状態fluxe de bouchであるような場合もある。だがコールリッジのような場合は、その話が一人でなされ、自己中心的であっても、知識の後押しがあるために威厳があり、しかもその知識は話し手が尊敬すべき仲間たちの中心にいることと分ちがたく結びついているので、我々英国人は社会的表現のできる職業的話し手の<専門家>として認めるのである。タルベルグパガニーニを聞くために集まりを開くのと同じように、人は彼のような話し手を聞きにくるように言われる。少なくとも我々の間では理解されていることがある。正しかろうが間違っていようがその夜の話し手を中断するべきではないということである。質問して促すこともいいし、刺激することもいい。だが、彼に対して議論をしかけることは名演奏家の<巧妙な離れ業>の最中にジム・クロウを口笛で吹くほど当を得ないことである。

 

 しかし、フランスでは、国民性が強烈に会話の方向に傾いているので、往復運動が不可欠で、使われる文章形式もその第一条件に適ったもの、つまり、簡素で、きびきびしており、単純なもので、それによって誤解を避け、自分の話す番を待っているせっかちな相手に応ずる。早く文を書く者は話すように書くものである。そうする以外不可能である。手にペンを取り、人は仲間に向けて話すのと同じように文を作る。英国人とフランス人は同じ条件に置かれてもかけ離れている。例えば、両者がなにか話す場合を想定してみよう。そのような時、英国人はある一瞬を勝ち取ること、つまりどうすれば自分が意図するところを伝えることができるかしか考えない。それはフランス人でも同じなのだが、彼にはそれ以前にもっと重要なこと、<長ったらしい退屈さ>を避けるということがある。会話の公平は英国人の精神にはおぼろげにしか存在しない。フランス人の精神からそれが消えることは決してない。英国人にとって仲間の注意を集める権利は人にあるのではなく、<話す事柄>にあるように思える。もし議論の対象となっているのが重大なことであれば、<そのこと>のみによって英国人は仲間の注目に値する話し手となるようなのである。だが、フランス人にとっては、話に参加する権利は<人として>の権利であって、話している事柄によって追いやられてしまうものではありえない。話題は話に参加している人間の間で必然的にあちらこちらへ、前に後ろにと移る。羽根突きや「スリッパ探し」のように、興味の対象は、ルールを破ったり、動きを止めたりすることなしには一個人の上にとどまったり、ぐずついたりすることは<できない>のである。それ故、当然のことながら、文章の構造はフランス人の知性の第一機能である会話性、社交の必要性(フランス人にとっては<必要>なのである)、(平たく言えば)果てしのないおしゃべりに適ったものになる。