ケネス・バーク『歴史への姿勢』 57

... 「いずれにしても私の勝ち」

 

 事態がある方向に向かえば体系的にそれを説明し、事態がまったく反対の方向に向かっても体系的に説明するという仕掛けのこと。最初にこの図式に突き当たったとき、我々は議論の信用度を試す方法を見つけたと思った。ある哲学者が体系を描き、それが「いずれにしても私の勝ち」という仕掛けの一種だとみなされるなら、致命的な誤りがあらわになるのだと考えた。しかし、成長するに従い、別の考え方ができるのではないかと自問し始めた。そして、いまでは、こうした検証法を完全に疑っている。我々は問題を排除ではなく、水路を開くことによって支配するべきである。つまり、その思想家が「いずれにしても私の勝ち」戦略を追いつめる試みに<我々と共同作業を取る>かどうか尋ねさえすればいい。そうした試みは必然的に彼の仕事に含まれることとなろう。そして、哲学者としての正当なゲームの仕方としてカードをオープンにして戦うことことを要求し、それに応じて我々が助けとなり、正確な「見積もりをする」手助けをすることができる。

 

 すべての問題は「本質」と「存在」とのスコラ哲学の区別に関係している。事物には、善、悪、どちらでもないという多くの側面がある。世俗的祈りによって、ある<一つの>側面を<本質>だと「票を投じた」とき、この混乱は「超越される」。例えば、人間の本質は「神のような性格をもつ」ことにあると見なすこともできる。或いは、その本質は「動物のような性格をもつ」ことにあるとすることもできる。「意志の行為」によって(「道徳的」選択)投票を締め切ることで、「本質」として選択されなかった属性は「偶然的なもの」に分類される。

 

 かくして、我々の諸原理と諸政策の議論においてはこうなる。恒常的な原理は動機づけの「本質」であり、しばしば正反対のものに移る政策は「偶然的な」ものである。もし世俗的な祈りによって人間を「本質的に」戦士だとするなら(ニーチェがしたように)、決疑論的拡張によって、愛のなかにも戦争の要素を見いだすことになろう。反対に、人間は本質的に対話するものだと定めれば、共同作業的な要素は「本質的に」戦争にも見いだされうる。資本主義は「本質的に」競争的である(この点については、賛成者も反対者も同意している)。しかし、この本質にもかかわらず、我々は多くの非競争的な要素を認める(競争的な争いのなかにも真の「仲間意識」の数多くの例がある)。

 

 「いずれにしても私の勝ち」というのは、道徳的に「ご都合主義」と名づけられているものに手法として等しい。その「眼に見えぬ存在」という説で、精神上の出来事(「原則的な」)は歓迎できるが、同じ出来事が実際の存在の性質をもっていると傷つくことになってしまうホイットマンの「ご都合主義」もある。つまり、不動産ブームの「本質」には「眼に見えぬ存在」がある。この眼に見えぬ存在は利益のことを考えはしないが、集団的に大陸を建設しようという熱意と強い興味がある。<資本主義を打ち立てている>人間を見ても、彼らは実は<社会主義を打ち立てている>のだとみなして、その行動を「超越的に」歓迎することができたが、ある程度は実際その通りだった。(1955年の付記、どちらにしても、<社会性を打ち立ててはいた>だろう。)

 

 「不調和による遠近法」は「いずれにしても私の勝ち」と同じ仕掛けである--こう言うことで、我々はカードをテーブルにさらすことになる。例えば、パルメ-ダットの知的な洒落に見られる見事な「計画的不調和」を取ってみよう(ファシズムを「腐敗の組織化」と定義した)。融通のきくこの言葉に従えば、負けることはない。※ナチスの軍隊の場合には一方の語を強調し<腐敗>の組織化と言えばいい。軍隊に協力しているものについては、もう一方を強調し腐敗の<組織化>と言えばいい。腐敗が「本質」で、組織化が「付帯的」である。

 

*1

 

 我々がこの例を取上げたのは、この説に心から賛成しているからである。テーブルにカードをさらす哲学者たちは、自分の作品にある「いずれにしても私の勝ち」戦略の更に二つのあらわれを探すべきである。自分の作品を組織化する際の手がかりとした「主導的メタファー」を発見しようとするべきである。「人間は、神、猿、機械と考えられる」等々--このメタファーを使うことでなにが言えるか私は伝えることができよう。あるいは、更に、メタファーとその微妙な転換の発見をも助けることができよう。例えば、私が人間を機械と考えると言い始めたとしても、その戦略的地点において私は「ご都合主義的な転換をし、人間を英雄として(つまり、神として)論じ始める」といったことが見て取れることになろう。

 

 なぜそうしたメタファーを選ぶに至ったかを問わねばならない。例えば、我々が「対話を本質とする人間」を選んだのは、いま必要な事柄を扱うのに合っていると感じたからである。それを生気のない、混合したメタファーである「想像的なものの官僚化」で修正したのは、「この不完全な世界」で実際に具体化される柔弱な想像的ユートピアでは必然的に生じる「期待はずれ」の幻滅にあまりに過敏に反応しないようにと思ったからである。

*1:『お気に召すまま』で追放された侯爵が「逆境の御利益というのは素晴らしいものだ」と言ったとき、「いずれにしても私の勝ち」とするために、「不調和による遠近法」を実行している。追放されても、追放による「報酬」を見いだそうとする--劇の最後で侯爵領を取り戻したとき、侯爵の報酬を得る準備は既にできていたのである。

断片蒐集 51 青木正児/石になった仙人は夢を見るか

 

 『神仙伝』のなかに、さる仙人が宮廷に招かれ、術を披露しろと命じられたところ、たちまち石と化した、というエピソードがあったと思う。幸田露伴の『新浦島』という小説は、それ以前にさまざまな曲折はあるが、最終的には道術を会得した主人公が医師になってしまう。素晴らしいような馬鹿馬鹿しいような結構な術でございます。

羊と石

 

黄初平が金華山中で白石を叱して羊と為したと云ふ故事。(・・・)

  羊成石、石成羊  (羊ハ石ト成リ、石ハ羊ト成ル。

  即此可以喩滄桑  即チ此レ 以テ滄桑ニ喩フ可シ

  今朝有酒須盡觴  今朝 酒有リ 須ク觴ヲ盡ス可シ。)

    飲満座  (満座ニ飲マシム。)

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 56

... 「よき生」 "Good Life"

 

 「人々とうまくやっていく」ことには、必然的に「よき生」という考えが含まれる。それについて簡潔に述べてみよう。

 

 最大限の身体性。身体的経済的設備の必要性を踏みにじる限り、グロテスクな魂だけの存在になる。多くの心理学者は、治療を買うことができると思っている人間に治療を売ることで怪しげな生計を立てているが、これらの人々は適切な身体的表現をとった治療、或いは、治療を必要とするような状態からの免疫性を求めるのである。ボタンを押して済むことが多くなればなるほど(同じことだが、助けを雇うことでもいい)、三文詩人が大量に産出されることになろう(心理学的に雇用されていないという神経症、同じ場所にばかりいる余暇は悪い詩を生む)。テクノロジーの「進歩」が適度に身体的な仕事を奪い、威厳をもった文書管理(機会が働き続けるように書類の整理をする)が割り当てられる限り、不運なことではあるが、半ば退廃的な「スポーツ」に頼らねばならない。市民が搾取的な玩弄物に対する尊敬を失い、喜劇に安住する社会が確立するまで、或いは確立されなければ、よりよき日は訪れないだろう。

 

 「精神的なもの」への過度の強調は、部分的にはスノビズムからくるものであり(精神的な仕事は肉体労働より上に位置づけられる)--プロレタリアートについて屈託なく語る多くのコミュニストが仕事場までさえ歩かず、身体性の言葉による讃仰は座業が生みだした西部開拓期の小説にしかないことはわかっている。「精神的なもの」を高く評価することは、また、「精神」と「身体」という初期の宗教的二元性の世俗的な変種でもある。(身体は「堕落して」おり、精神は「純粋」である--最終的には、堕落した身体も純粋な精神という精神性に達するだろう。現在は、こうした「超越」が、機械によって、この地上で行なわれると望まれているように思われる。)

 

 神経学者が脳の働きを説明する際の喩えが正しいなら、身体を重視するもう一つの根拠がある。二種類の神経繊維があり、一方は外に向かって身体的な行動となり、一方は互いに連絡しあって、内的な連合の働きを発達させるという。この連合を生む繊維は、純粋に心的な活動が身体的行動に取って代わるのに比例して厚みを増していくように思われる。こうした発達の「理想」は明らかにヴァレリー(「テスト氏」の創造者である)の理想と近しいものであり、彼は「完璧な哲学的方法」は目に見られる行為の表現を完全に見当違いなものとするだろうと述べた。こうした方法は連合的な調節だけにより、内的完成のうちに発達するもので、「閉じた円」の対称性をもっている。

 

 マルクス唯物論的な力点が重要なのは、まさしく彼がこの「オナニスティック」な理想の反対を勧めているからである。様々な力は円の<外側から加えられる>--円は外側に向いた<行為を導く>ものとなる。

 

 ギリシャ人は、身体的訓練と心的訓練とを並べ、身体的な矯正の必要についても理解していた。「理想的なギリシャの饗宴」では哲学者とともに運動家も認められた。生物学上では賢明な保守派であったアリストテレスは、反座業的な哲学の学派をつくり、自分の考えを<歩きながら>伝えたのである(逍遥学派)。一般的に困難であるのは、身体的運動家と心的運動家の両方が理想的な哲学の饗宴では代表となるのであるが、どちらも専門家として、二元性の一方を代表してしまうことにある。思想家は「健全な身体には健全な精神が宿る」というような言い方で理想と現実の「たるみをのばす」傾向があるが、そう<発言する>だけで十分だと考えているように思われることがしばしばである。

 

 感情の表現に最大限の機会を与えること。情念に対する不信。情念は「野心的な」ものである。それは資本主義の「創造的精神医学」によって最大限に刺激される。理想的な社会では、野望を<欠いた>者は医者に行く必要はないであろう--野心を<治療してもらう>ために医者に相談するのである。資本主義の逆説においては、過度の野心が規範となっている。野心を欠いた人間は単なる「落ちこぼれ」である。百万ドルを維持するために狂ったように働き続けるためのばかげたすべてを求めるのを止めるやいなや野心を失ったことになるのである。

 

 「精神的なもの」はここで入ってくる。概念的、想像的シンボリズムは感情の戯れにとって必要である。「たるみをのばす」ために必要とされる(避けられない葛藤に橋を架け、適切に扱うに十分な正確さをもって重要な社会経済関係を名づける)。

 

 「超越」によって戦いを共同作業に変える建設。(「戦争の道徳的等価物」である建設、創造、共同作業)。

 

 「誤りの記録」の辛抱強い研究。「文化的破壊」を避けるためには、文明によって蓄積された<文章のすべて>を常にさらしておかねばならない(人々の称讃が責任あるものとしてうまく働かないことがあるという警告となりうるので)。しかしながら、その姿勢が「偏狭」であってはならない。14,18番目の記録の前にはすべての人間が馬鹿だったのだというような自分に都合のいい考えであってはならない。我々の愚かさは常に新たに生まれ出る。最も正確で抜け目がなく総合的な科学であっても、絶対確実ということはあり得ないのである。

 

 とりわけ、批評は、いかなる構造であっても自己破壊的な面(「内的矛盾」)を発達させるものであることを明瞭にしようと努めるべきである。「意図せざる副産物」を見張るべきである--そして、それを指摘しようとすることで窮地に追い込まれないようにするべきである。

 

 知識の限界を常に強調すること。別の言葉で言えば、命題を実行する能力というのは、本質的に<スピノザ的>なものであり、「自由は必然性の知識である」。

 

 <紙の上での>芸術の肥大を不信の眼で見ること。芸術は活気ある社会的関係のうちに表現されるべきである。そうでないと、補償的で、なにかに対する反対として「効率的な」ものとなってしまう。資本主義の基準を完全に受け入れると、あらゆるものを<売るための商品>として考えることになる。それゆえ、我々は「生きるために芸術をしている者」は「才能を浪費している」と感じる。むしろ、社会全体の文脈のなかで彼の「芸術性」を自覚させよう。商品としての「使用価値」がそのことで失われるとしても、より「経済的な」形を取ることにしよう。

 

 確かに、我々はこれですべての問題を明らかにしたとは言えない。移ろいゆくものを永遠のものにしたいという芸術家の欲望もある。プラトンソクラテスの発言を永遠なものにしたように、「良いもの」は永遠に手にはいるようなかたちにしておきたいと思う。プラトンは伝達を目的としてソクラテスの会話を「実演した」。彼は「歴史を越えたネットワークで放送するための」機器であった。移ろいゆくものを永遠なものにしようとする敬虔な態度は尊重しなければならない。ただ、この行為と、生きるための芸術を犠牲にして紙の上での芸術を取る行為との重要な質の違いを認める必要がある。

断片蒐集 50 青木正児/樽から樽へ帰るひもがな

 

私はもう酒をのまなくなって10年くらい経つ。惜しむらくはこんな馬鹿馬鹿しい辞世の歌を残せなくなったこと。 

大酒の会

 

江戸初期慶安の頃江戸に大酒戦が行はれた。一方の大将は地黄坊樽次とて大塚(後の鶏声が窪であると云ふ)に住み、一方の大将は大蛇丸底深とて川崎の大師河原に住んでゐた。慶安元年秋の頃樽次は門下の酒徒を引連れて大師河原に乗込み、底深の一門と飲競べして底深を屈服せしめた。此の顛末を戦記物語風に戯作したのが「水鳥記」(三水に酉の意)三巻で、樽次の自作だと云われてゐる。京伝の「近世奇跡考」巻五などによると、樽次は本名を伊原城(一に茨城に作る)春朔とて酒井候に仕へた儒医で、寛文十一年四月七日に卒し、駒込千駄木妙林寺に葬られ、法名を信善院日宗と号した。然るに没後其の門下の酒徒であつた小石川戸崎町祥雲寺の住持が寺内に彼の為に碑を立て、法名を酒徳院酔翁樽枕居士と題して其の辞世二首を刻した。其の一に曰ふ、

   南無三宝あまたの樽を飲みほして、身は空き樽に帰る古里

と。

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 55

... 法廷弁論 Forensic

 

 物品は広場で、市場で供給される。物品についての法律、議会の進行、交通法規、科学的な因果関係は複雑で洗練される交易(物質的および精神的な種類の)に従って発展する。原始的な社会では、法廷的なものは最小限であるか、完全に欠けている。その基礎は、長老会議にあり、そこでは、部族の行為、姿勢、政策が言葉にあらわされ合理化されるように発展した。それが成長するに従い、党派的な強調を加えることが可能になった(ある要素を強調し、それを論理的に敷衍する「専門家」によって)。

 

 子供は必然的にこうした法廷的なものに気づくことなく成長する。彼の関心は直接の親族や遊び仲間、玩具や動物、食物、椅子、テーブル、木、地下室、屋根裏のような物質的対象である。たとえ、広範囲にわたる社会的関係に含まれる複雑な状況を言って聞かせたとしても、その関連性を把握することはないだろう。確かに、それに関する言葉を教えることはできる。しかし、自らの経験によって<得た>ものではないので、本質的に<異質>なものに止まる。

 

 その真の意味を理解するほど成熟したときに圧倒されてしまうこともしばしばである。法廷的な洗練をよしとしない生半可な宗教によって教育された場合は特にそうである。人々が道徳的な資産を利用してもうけ、同じような行動は自分にもあることを判断できるまでに成長するに従い、いかに純粋に世俗的なものではあっても、素朴なヒロイズムは同じような幻滅をもたらす。

 

 それゆえ、法的的なものの猛襲は常に何かしらの衝撃を生みだすに違いない。我々の場合、衝撃は物理的な現象を伴う。あなたの相手は近眼であった。その結果、世界は柔らかくにじんだ線でできている。世慣れた人の教えを最初は「シニカルな眼で」(資本主義の勃興以来発達してきた莫大な喜劇的文学に具体化されているように)見ていた彼は眼科医に送られた。眼鏡をかけた彼は突然過酷な輪郭の世界に投げ込まれる。僅かな同質療法ではそこに見えるものから免れることはできない。それは彼を「打つ」。彼は人々の顔に皺やしみを認め、当惑は<疎外>をもたらす。同じような過程は、人が法廷的なものを始めて真に理解し始めるとき、より精妙な形で起こると我々は主張する。

 

 ごく自然な拒否の傾向がある(幼年期にあった「命題」の「否定」)。いかに表面上は成熟していても、「暴露家」はこの段階にいる。「超越」は、「否定を否定する」までは起こらない。この過程で彼は前法廷的なものと法廷的なものとを一緒にするのであり、その状態は「善悪の彼岸」とも「諸対立の彼岸」とも言われる。

断片蒐集 49 マイケル・エイヤー/その実体は・・・

 

Locke (Arguments of the Philosophers)

Locke (Arguments of the Philosophers)

  • 作者:Ayers, Michael
  • 発売日: 1993/12/02
  • メディア: ペーパーバック
 

 伝統的な実体とは、馬は4本足で、たてがみとしっぽがあり、顔は細長く、乗ることができるなどといった五感から得たものの集大成であり、むしろロックはカント的な、五感から得られる情報をすべて取り去った後に残る「物自体」的なことを考えていたことになる。

実体は複雑観念

伝統的なカテゴリーの教義では実体と他のカテゴリーとの間に根本的な相違があるが、ロックにおいては単純観念とその他の相違が最も重要である(「単純様相」は特別扱い、限られた意味でのみ単純である)。伝統的論理学は「人間」や「馬」といった実体を「単純名辞」の範例とする。複雑性の範例は、実体がそれを形容するものと、偶然的なものと結びついたときにあらわれる。他方、ロックはその認識論において、我々のもつ実体の観念は複雑観念だと主張した。

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 54

... 本質 Essence

 

 行為は共同的なものか競争的なものかである。「本質」としてどちらかが選択される。例えば、婉曲な言い方をする者は、その行為は「神の栄光のために」なされたと言うかもしれない。暴露家は(ニーチェ流の考え方)本質として戦闘的要素を選択することもできる。ベンサム流の考え方では、行為は「甘い汁を吸うために」、自分の利害、自分の権力の増大のためになされるというかもしれない。動機づけの本質を「喜劇的」な枠組みで見る者は、どの考え方も取らず、行為を道徳的なものとみなし、行為者は道徳的な取り柄をなんとかうまく「利用する」のだと考える。これは不当な持ち上げでもなければ、シニカルな幻滅をあらわにしたものでもない。物事を抜け目なく「判断しよう」とするものだが、言葉に含まれる意味が論理的に実行されたとしても、共同作業を不可能にしないような言葉づかいである。どんな地位にいる人間でも、搾取しようとするのは当然のこととしている。

 

 「本質」は「効率性」の一面である。例えば、「プロレタリアート」の虚構を「プロパガンダ」する作家は、「階級闘争」が現代の状況の「本質」だと信じている。従って、「階級闘争」で大きな「効率」をあげるストや工場閉鎖についての物語を書く。そうした経験が二次的なものだとする批評家は、憤ってこうした本質を「図式化」、「過度な単純化」、「感傷」だとする。彼の立場は、この特殊な効率性についてオリンピックに臨むような態度を可能にする。

 

 しかし、そうした批評家の芸術についての議論はしばしば「完璧な世界」という判断体系に基づいているように思える。完璧な世界では、芸術は「効率性」を欠いているだろう。作家は、完璧な均衡を保った超全体のなかで、完璧な均衡を保つ下位全体となるであろう。大宇宙にみあった小宇宙となろう。単一の包括的な共同作業を取る成員のなかでアイデンティティを定めることになろう。

 

 <あからさまに>「理想的な」規範として提示されるのであれば、この判断基準について争いは起こりえない。批評は、ゲームのルールとして、明示的であることが期待される。そして、「完璧な世界」という価値基準の明示的な採用は、規則として残ることになろう。完璧な世界という理想に照らして、と述べることなく、「不完全な世界」のあらわれを論じるときに困難が生じる。

 

 明示的な価値基準であれば、効率性を「責める」こともなかろう。むしろ、アクイナスのように、「本質」と「存在」との区別をすることで、絶対的で包括的な本質を和らげるだろう。アクイナスは現実主義者である。本質という完璧な世界の価値基準を採用するとしても、「存在」という不完全な世界を考えるためにはそれを修正しなければならないことを知っていた。例えば、全体性を芸術の「本質」ととることもできる。しかし、いかなる人間であってもその個別の<存在>は必然的にある要素の強調とある要素の軽視を含むので、いまこの世界で営まれる社会には常に「効率性」(完璧な「生態学的均衡」を破壊するものである)という尺度が入るものであることをつけ加えるべきである。

 

 この立場を正当化するためには、すべての人間がそのメンバーである超共同体とはなんであるかを正確に述べるべきである。忠誠を正当に競うような他の共同体が存在しないことを示すべきであろう。人間とは一つの存在でありながら、同時に「そのアイデンティティが互いに一致しない幾つかの共同体のメンバー」であることから帰結する「多元論」をはっきりと論じ、論駁しなければならない。