ブラッドリー『仮象と実在』 58

      (結論。)

 

 この結論をもって、私はこの章を終えようと思う。ここまで我々の議論につき合ってくれた読者であれば、もし望むなら、この問題の細部を辿ることができるだろうし、自己の実在に関する主張を批判することもできよう。しかし、我々が原則として知ることになった反対意見を痛感したのならば、到達する結論は既に決っているだろう。自己をどのようなものととろうと、それが仮象であることは証明されよう。それが限定されたものなら、外的な関係に対して自律することができない。というのも、そうした関係は本質にまで入り込み、独立性を破壊するからである。限定にまつわるこうした反論を離れても、どちらにしろ自己は不明瞭なものである。というのも、それを考慮する際、それ自体では満足するものではない感情を越えでることを余儀なくされるからである。そして、いかにすれば多数性が統一において把握されるのかを理解できるようにする擁護されうる思考や知的原理には達することができない。しかし、もし我々がこれを理解できず、自己について考えることがなんであれ矛盾に満ちているなら、必然的に生じる次のことを受け入れなければならない。自己は疑いなく我々の有するもっとも高次の経験の形式であるが、にもかかわらず真の形式ではない。それは実在にある諸事実を与えてはくれない。それが呈示するのは、仮象仮象と誤りである。

 

 こうした帰結がなぜ全面的に受け入れられないのかの一つの理由は、前の章で詳細に述べた自己の多大な曖昧さにあるように思われる。この言葉は明らかに異なった意味の間を揺れ動き、多様な対象に適用され、議論において十分に定義された形で用いられることが滅多にない。更に根本的に曖昧さを助長しているものがある。形而上学の目的は世界を理解し、矛盾に陥ることなく一般的な諸事実について考える方法を見いだすことにある。しかし、この極めて重大な問題に関して悩まないような作家はほとんどいないように思われる。自己からその理解のための原理をとろうとする者のうちでも、公正な吟味のための原理を得る者がいかに少ないことか。しかし、先の二者選択から論じ、自己を見失っている理論を反証し、世界の秘密として残っているもの--それが思考可能なものであろうが、理解を拒むような複雑なものだろうが--を呈示するのは簡単である。そして、自己のいない世界を描き、そこに空虚と幻影のみを見いだし、自己を心理学的怪物にお似合いの暗黒といかがわしい慰めのもとに送り返すのは容易なことである。しかし、もしある対象が理解されるなら、我々が考えなければならないことは一つしかない。その原理がどんな源から発したのかは問題ではない。それはなにかに対する反駁から生じたのかもしれない--それでも悪くはない。あるいは何らかの内的な託宣に対する反応として生じたのかもしれないが、それも悪くはない。しかし、形而上学においては、原理は、それが打ち立てられる以上、完全に自律したものでなければならない。諸事実を覆う程広く、内的に調和を欠くことなく考えることができなければならない。もう一度繰り返せば、それを軸にすべてが展開するのである。多数性と統一が明るみに出されねばならず、原理はそれらを把握するものでなければならない。それが諸関係の迷路に我々を運び、諸関係は幻影的な諸項へ導かれ、諸項が際限のない関係のなかに消え去るようであってはならないのである。しかし、自己はそうした原理を与えてくれるには程遠く、曖昧さのうちに身を隠しているというよりは、単なる矛盾の固まりである。我々の探求は、再び我々を実在ではなく単なる仮象へと導いたのである。

ブラッドリー『仮象と実在』 57

      ((e)モナドとしての自己。)

 

 (e)結論としてモナドの理論に簡単に触れておこう。各自己というのは独立した実在で、単純なものでなくとも実体だという教義において、実在に関する筋道の立った議論が探求されている。しかし、この試みには長々しい議論を必要とはしない。第一に、世界に一つ以上の自己があるなら、我々はその関係という問題に直面する。「そんなものはなくてもかまわないじゃないか」という答えは、三章で既に見たように、十分な防御ではない。分かれてあるという関係のない多数性や分離は実際なんの意味ももたないように思える。他方から見れば、諸関係がなければそれらの貧弱なモナドには過程もないだろうし、なんの目的もないだろう。しかし、関係を認めてしまうと、モナドの独立には致命的なのである。明らかに、実体は形容詞的なものとなり、すべてを包括する全体の要素となってしまう。そして、安定した堅固な原則のない内容物だけが残されることになる。(1)第二に、それが残されたとしても、我々の難点の解決にはならないだろう。考えて欲しい。我々は多数性と統一とが調和されないものであることを見た。その内容物との関係における自己、存在というものがとる多様で特殊な形式、その双方の至る所で我々は同じ厄介事にであった。我々は一緒でなければならないものをもっているのだが、それがどのようにしてまとまっているかはわからない。自己のは多様性があり、自己には統一性がある。ところが、いかにしてかということを理解しようとすると、矛盾した、それゆえ真理たり得ないものに落ち込んでしまう。それでは、自己のモナド的な性格--その正確な意味(もしあるとして)がどのようなものであろうと--は我々をどのように助けてくれるのだろうか。少なくとも、どうして多数性が一なるもののなかで調和をもって存在することができるのか示してくれるだろうか。もしそれがなされるなら、謹んでそうしてくれるようお願いする。というのも、そうでなければ、統一ということが単に言明され、強調されているだけのようだからである。多様な内容の問題は完全に無視され、あるいは虚構と隠喩の混乱のうちに隠されている。しかし、もし統一の強調以上のことが意味されているなら、その以上は明らかに反論されうるものである。というのも、多数性が説明されるかわりにないがしろにされているところでは、自己の真の統一がもつ限界線についても否定的な主張がなされるだろう。この主張は批判に耐えることができない。最後に、時間における自己とその内容物との関係が新たな解決することのできない謎になる。全体として、モナド主義は既に存在する難点を増やし新たにつけ加えるもので、そのうちの一つとして解決をもたらさないだろう。実際、我々のすべての難点の説明が、その一側面を執拗に強調することで得られるとしたら奇妙なことだろう。

 

*1

*1:(1)注意深いロッツェの読者は、なぜ彼にとっては個的な自己が仮象的な従属物以上のものなのか理解し難いに違いないと私は思う。私には、彼の分析によれば何らかの仕方でそれ以上のものを得るのだということしかわからない。しかし、彼がこの問題に公正に向かい合おうとしているとは私には思えない。

ブラッドリー『仮象と実在』 56

      ((d)活動、力、意志としての自己。)

 

 (d)次に私はある厄介な話題、自己の内部で実在をあらわにすると思われている精神力あるいは意志について勇をふるって述べなければならない。困難なのは、主題の性質というよりは、それを扱う方法からきている。もしこの問題について明確な言明を得ることができれば、この段階で我々の議論を数語で終わらせる、あるいは既に解決済みの問題だと言うことができる。しかし、明確な言明というものこそまさしく(私の経験による限りでは)得ることのかなわないものである。

 

 活動についての議論を思い起こしてもらえば、読者はそれがいかに諸矛盾によって事実上謎めいたものとなったかを思いだされるだろう。そこでは形容と関係と諸項についてのすべての難問が、時間や因果関係に関するあらゆるジレンマが一緒になり、新たなものが付け加わりさえしたように思えた。調和の取れたものになるどころか、我々が考えようとした活動性は救いようなくばらばらになり、食い違いを見せた。自己がこの混沌に秩序をもたらすと仮定するのは、自己のまったくの無能ぶりを経験してきた後では、合理的というよりは楽天的に思える。

 

 もし我々が、自己においてあらわになる精神力や根拠を意志と同一のものとみなしても、明らかにそれは我々を助けることにはならないだろう。意志力のなかには観念があり、自己の内部での決定的な変化があり、自己実現している。(1)意志力は恐らく、一見するところ、我々の形而上学的難問の解決を約束するように思われるかもしれない。というのも、我々は遂にそれ自身のうちに原因と結果をもつものを見いだしたかに思われるからである。しかしそれが幻影なのは確かである。時間における変化の始まりとその過程についての古くからの難問、同一性のなかにある多様性に関する古くからの混乱など--どうしてそのどれか一つでもが取り除かれ、より扱いやすいものとなろうか。世界を説明する原理を見いだしたかどうか尋ねても無駄なことである。というのも、いまだ我々は自らの重みに耐えることのできるもの、一瞬のごく表面的な考察にさえ耐えうるものを見いだしていないからである。もちろん、意志力は我々に実在の強い感覚を与える。もし望むなら、そこに事物の神秘の中心があると結論することもできる。多分そうなのだろう。ここに、それを理解する者にとっての答えがあるのだろう。問題は、我々がその理解に達することができるかどうかである。しかし、私に与えられるのは、理解されたというよりは、救いようのない混乱のうちに解釈された経験であるように思われる。ある人間の情熱を伝えられれば、愛だけが世界の秘密を明かすのだと感じもし知りもしよう。そうなるのはまったく適切なことであるが、なぜそれが形而上学と呼ばれるべきなのかはほとんど理解することができない。

 

*1

 

 もし、観念が実現される意志から、エネルギーのより曖昧なあらわれに後退したとしても、進捗はないだろう。活動、抵抗、意志、力(あるいは、もっとも謎めいたものであっても)の経験において、我々は最終的に実在の堅固な基盤に達すると言われている。私はここにあらわにされたメッセージの反証を挙げる程軽率ではない。疑いなく、それは神秘であり、その意味を告げ知らせることのできる者は、まさにそのことによって沈黙を強いられ、無知でさえあるとみなされる。私にできることは、いまだ伝えられていないものについての表面的な言明を簡単に書き留めることである。

 

 第一に、心理学的にとると、このあらわれは欺瞞的である。抵抗は言うまでもなく、活動に類するものは本源的な経験ではない。それは二次的な産物であり、その源は神秘的どころではなく、それについては以前の章で述べておいた。(1)不明瞭な諸感覚の顕著な周縁を指摘できることは確かだが、それには物事の本質的な部分は含まれないだろう。私はためらうことなくこう言うことができる。こうした経験を基本的なものとみなす心理学者がいるとすれば、彼はそれを真剣に分析してみようとはしなかったのであり、決然とそれが含む問題に直面しようともしなかったのである。第二に、形而上学的にとると、それがどんな源からこようが、意味がないか間違っている。ここで我々は再び極めて重要な点にいる。私はあなた方の託宣がどうであろうと、その途方もない心理学がどんな教えを説こうが気にしない。真の問題は、あなた方のお告げが(それが何ごとかを意味している限り)仮象や幻影ではないかどうかである。それがなにも意味せず、言ってみれば、単なる所与で、原理として受けとることができるような複雑な内容をもっていないなら、我々が快や苦痛で得ることができたものだけで十分だろう。しかし、それらによって世界を理論的に考慮しようとするなら、間違っているだけでなく、単純にばかげている。活動や力であっても、それが単に存在し、なにも告げてくれないなら同じことである。しかし、他方、そのあらわれが意味をもっているなら、私はのっぴきならないことになる。つまり、神託が余りに混乱しているので、その意味が定かなものでないのか、あるいは、ある明確な言葉であらわしてしまうと、その言葉が誤りとなってしまうかするのだろう。それを光のもとに引き出し、前述の批判にさらすと、その救いようのなさがあらわになる。それは解決されない食い違いが含まれていることがわかり、真実ではなく、詰まるところ仮象しか与えてくれない。この問題についてはそれ以上触れるつもりはない。

 

*2

*1:(1)意志の心理学的な性質については『マインド』49号で論じた。

*2:(1)私は一般的な形でのみ問題に触れている。あれこれの活動の知覚の諸要素が発する特殊な源についてはなにも言っていない。それは心理学に関する事柄である。

明治余韻ーー福沢諭吉と丸山真男

 

「文明論之概略」を読む 上 (岩波新書)

「文明論之概略」を読む 上 (岩波新書)

 

 

 丸山真男という思想家は、私にとって長い間ブラインド・スポットのなかに入っていた人であって、元来そのときどきに好きになった著作家から、芋づる式に読書範囲を拡げていく私の芋づるにいっかな引っかかることがなかった人物なのである。数年前に読むようになったのも(岩波新書の『日本の思想』はそれこそ数十年前、学生のころ一般教養として読んだような気がするが、もちろんその内容はなにひとつおぼえていなかった)、荻生徂徠本居宣長など、江戸時代の儒教国学に関心があったので読んだにすぎなかった。もっともこの頃には、丸山真男の主著が福沢の『文明論之概略』の周到な読解にあることは知っていたが、同時に、単なる啓蒙家、実学を重んずる人物であり、維新史のなかでは私の贔屓である勝海舟を『痩我慢の説』で、旧幕臣でありながら新政府のために働いているといって批判していることなどを見ると、妙なところに「痩我慢」をもちだすものかなと思ったし、なにしろお札になるほどだから、とそこはかとなく馬鹿にしていたので、丸山真男がなぜ執拗に諭吉を論じるのか理解できなかったのだが、「福沢に於ける『実学』の展開」(1947年)および「福沢諭吉の哲学」(同年)を読んで、その理由が多少なりとも理解できるようになった。

 

 実学は、字義の詮索をもっぱらとする儒教や有閑的な歌学に対立するものとされ、そしてそうした実学の観点から福沢の啓蒙的性格が評価された。しかし、実学そのものは、明治の福沢諭吉を待つまでもなく、山鹿素行や熊沢蕃山に明らかなように、実は日本において伝統的な主張であるといっていい。

 

 伝統的な主張と異なるのは、福沢が言う学問が江戸時代とはまったく変わっていることにある。江戸における学問とは、修身斉家の学、つまり、儒教を中心とした倫理学であったのに対し、福沢の学問とはニュートンに大成されたような物理学を指している。従って学問がそのまま倫理に直結するのではなく、物理学を学問の原型におくことによって、近代科学を生みだすような人間精神のあり方、そうした人間の倫理を探ることになる。

 

 旧世界においても、自然の観察、認識は盛んに行われたが、それは自然現象のなかに倫理的な価値判断が持ち込まれるという形においてであり、精神と自然とは解きほぐせないように浸透し合っていた。天が高く地が低いことが天地の秩序をなすのと同じように、身分的な上下をも同じようにあらわしていて、それは単なるアナロジーではなく同一の一貫した原理であった。

 

 西欧の近代は、まさしくそうした自然の内在的価値、精神と自然との浸透を切り離し、人間的な主体を確立することにあった。逆に、日本の旧世界の理想は、自然と社会的秩序の合一にあった。生活は、この秩序に順応することによって決定された。

 

 『文明論之概略』は価値判断の相対性を主張することではじまっている。相対性をもってはじめて軽重、長短、善悪、是非などを論じることができる。そしてこの「哲学」が福沢の状況論にも一貫している。たとえば、徳川体制はヨーロッパの近代市民社会と比較すれば、権力偏重の社会であり、立ち後れているが、一方、明治維新後の中央集権的統一国家に対しては、社会的価値が分散しているという点でバランスが取れていたと評価されうる。

 

 ヨーロッパは国の独立という点においては、モデルとなり得ベきものであるが、その文明が絶対的な真であるわけではない。文明とは本来国家を超出する世界性をもつべきものだからである。この世界性に照らせば、ヨーロッパといえどもいまだ劣った価値をもつに過ぎない。

 

 価値判断の相対性は、人間精神の主体的能動性なしには即座に状況に呑みこまれてしまう。社会的交通(人間交際)の頻繁化こそがすべての変化の原動力である。

 

それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速かになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、従ってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。この大いなる無限の過程こそ文明であり、この過程を進歩として信ずること、それが福沢の先に述べた様な神出鬼没ともいうべき多様な批判を根底において統一している価値意識であった。(「福沢諭吉の哲学」)

 

 

 つまり、福沢の哲学は、西欧においては、事物の価値を内在的な性質とせず、具体的状況との機能性によって決定していき、十九世紀の機械的決定論に埋没した科学的精神を、ルネサンス当初の実験的、かつ主体的行動的精神と再び結びつけようとしたプラグマティズムと比肩しうるものである。

 

 現代はといえば、人間の交渉様式は多種にわたり、状況の変化はますます加速化し、価値観は多様になり、多元的な世界になったが、同時に貧富の差は拡大し、原理主義やヘイトが蔓延している。ウィリアム・ジェイムズはプラグマティストの必須の条件として心が軟らかいことをあげたが、硬い心がますます充満しているようにも思える。鬱血やしこりが至る所に目立っているが、それは「社会的価値の、権力による独占」が可視化されて、分散して行く際の副次的な現象に過ぎないのだろうか。本来楽天的な私は、どんな硬直や悪行も、桂文楽とともに「天が許しませんよ!」と思っているのだが、ここでの天はもちろん儒教的な天ではなく、「噺家は化けなきゃいけませんよ」とも言った文楽の落語国の天であり、そこには文楽の例の特徴的な哄笑が響き渡っているのである。

ブラッドリー『仮象と実在』 55

      ((c)人格の同一性は無価値であり、自己の機能的な統一も同様である。)

 

 (c)我々は自己を感情と見てもなんら難問の解決の鍵にはならぬこと、自己意識を取り上げてみてもそれ以上の成功は望めないことがわかった。それは単なる感情を越えでるやいなや古くからの錯覚に満ちた関係と性質の戯れに捉えられ、それによって消散してしまう。疑いなく、以前より高次のレベルで同じ錯覚を繰り返すだけである。努力はより野心的だが、結果は変らない。というのも、我々は統一のなかの多様性をどう理解すればいいのかわかっていないからである。私の判断では、これ以上の詮索は余計なことであるから、自己についてなされる他のいくつかの主張について簡単に触れてみよう。最初は人格の同一性の意識についてである。それは自己の実在について何らかの関係をもっていると思われているが、私の考えではそれは見当違いだと思われる。もちろん、自己はある限度、ある点までは同一である。その限度について原則を立てるのは他の人間に任せておこう。というのも、私の見解では、根底において恣意的でないものなど存在しない。しかし、私が見てとることができないのは、自己同一性の意識から生じる形而上学的な結論である。この事実が自己の不連続性を主張する教義を反駁するものであることは私も理解している。あるいは、より正確に言えば、明らかに原則において自己矛盾している教義に対する明白な反証である。自己はまったく分離的なもの<ではない>。それ故、(疑いなく、ある不思議な二者択一によって)我々はその実在を認める結果になるわけである。しかし、事実は単に次のようなことであるように思える。自己にある種の、理想的には同一の基礎となる内容がある限り、自己はその基礎的内容と関連して想起することになろう。そして、この内容の同一性は、復元し過去を自己の歴史とするために働くもので、実際、我々はこれを基礎としてすべてを打ち立てなければならない。そして、もちろん、このことは自己同一性は事実として存在し、それ故、<いかようであれ>同一の自己は実在にちがいない、ということを示している。しかし、ここでの問題は<いかにしてか>ということである。問題となっているのは、我々が理解できるような形で自己の実在の存在と連続性を述べることができるか、それが先の議論の難点によって台なしにされないかどうかなのである。というのも、我々は興味深い事実を見いだすことはできるだろうが、実在についての筋道の立った見解はほとんど見いだせそうにないからである。その筋道だった見解を瞥見すれば、我々の事実が致命的な誤解を受けていることが示されるだろう。いずれにしても、我々が呈示できるのが相互矛盾したものである限り、それらが真の実在であることを信じようとするのはばかげている。記憶の驚くべき能力に頼ろうとしても事情は変らない。というのも、問題となっているのは、伝えられたメッセージの、あるいはそのメッセージから我々が引き出す結論の真実であるかだからである。私自身はといえば、こう主張する。(どのようなものであれ)批評に耐えるような説を出して、私が至る所で出会う混乱した事実を理解できるようにして欲しい。そうしてくれれば私はそれに従うし、そうした啓示を示してくれるものを奉ずることになろう。しかし、私は奇跡によって保証されているような、あるいは、心理学的怪物の口から出たような実在に関する無意味な言葉を受け入れることはないだろう。

 

 そして、もう一つの事実とみなされているものに対しても私は同じ態度をとらざるを得ない。私が言っているのは、ある種の関係、例えば比較における統一性についてである。それは無時間的なものと思われており、自己に関する形而上学的見解の基礎となるものだとされている。しかし、もしその帰結が疑いようのない見解として提示されるなら、私はその基礎も帰結も同様に捨てざるを得ない。第一に、(第五章で見たように)心理学的に言って、持続から自由ないかなる心的事実も擁護できない。それに加えて、いかなる働きのうちにあるものも、なにかしら具体性があり、その働きと具体的な関係がなければならない。例えば、比較においては、比較されるものとの特別な同一性の基礎がなければならない。(1)第一に、無時間的な性質をもって独自に振る舞う無時間的な自己とは、私にとって心理学的怪物である。第二に、こうした途方もない事実が存在するなら、確かな見解というものが真実ではないことが示されることとなろう。そして、単なる途方もない事実だけが残ることになろう。少なくとも、私自身に関する限り、どのようにしてそれが首尾一貫して擁護しうる自己や世界についての結論を与えてくれるのかわからない。ここで再び我々は同じ問題にたどり着く。実在についての謎が我々をあらゆる方向から取り囲んでいることを見いだすのである。致命的な攻撃を受けることなく、批判の矛先をかわしながら差異と一とを結びつけるような見解を見せて欲しい--私は感謝する。しかし、私は他の点では誤りで、別の教義の反対意見でしかないような主張には感謝することはできない。受け入れることのできない主張を受け入れても、我々の手もとには非常に奇妙な事実が残るだけだろう。そうした事実にはなんの原理もなく、我々は世界の謎を解くこともできない。

 

(((1)この点については、『マインド』41および43号。))

ブラッドリー『仮象と実在』 54

      ((b)より進んだ自己意識も同様である。)

 

 (b)かくして、単なる感情には自己の実在を正当化する力はなく、当然世界一般の問題を解決するものでもない。しかし、多分、何らかの自己意識ではよりうまくいくかもしれない。それは自己についての鍵と同時に世界についての鍵をも与えてくれる可能性がある。簡単に試してみよう。見通しは確かに最初は元気づけられるようなものではない。というのも、(i)自己意識によってあらわになる実際の事柄をとると、それは(自己の理解について我々を満足させるという意味においては)内的に不整合に思われるからである。読者が前の章の議論を思い返してくれるなら、この点について納得してくれると思う。ある瞬間における、あるいはある持続における自己をとってみると、その内容は調和を保っているものとは思えない。また、その限りにおいて、我々はそれを矛盾なしに調和させることのできるような原理を見いだせない。(ii)しかし、自己意識は直観の、あるいは知覚の特殊な方法だと言われている。そして、一つの自己のなかに主体と対象がある、それ自身のそれ自身を通じ対立することによる自我の同一性、あるいは一般的に言って一にして多のものとして自己を自己把握するというこの経験は、最終的には我々のすべての難問に対する十分な回答となる。しかし、私にはそうした回答は少しの満足ももたらしてくれない。というのも、ここでも感情について致命的であることが証された反対意見を免れないように思われるからである。議論の都合上、直観(あなた方が記述するような)が実際に存在すると仮定しよう。この直観を保持する限りにおいて、矛盾のない多様性があると仮定しよう。それは確かに注目すべきことだが、実在を理解する助けとなりうる原理をもつこととはまったく異なったことである。というのも、どのようにこうした把握が長い出来事の系列を満足させることになろうか。どうしてそれが論証的な知性にある諸関係の形式に応じた知性に達し、超越しそれをしのぐことがあろうか。理解を取り除けば、世界が理解されないのは確かなことである。では、あなた方の直観は理解が求める要求をどのような方法で満足させることができるのだろうか。これは、私にはまったく克服することのできない障害となっている。というのも、直観の内容(一のなかの多)は、それを関係の形式に再構成しようとするとすぐばらばらになってしまうからである。そして、自己意識に諸関係を超えた水準の把握力--論証的な思考を越えた把握の方法でその過程をより高度な調和のうちに含む--を自己意識のなかに見いだそうとする試みは私には成功しないように思える。端的に言って、私はこう結論せずにはおれない。あなた方の直観が一つの事実であるにしても、それは自己や世界を理解することではない。それは単なる経験であり、それ自身や実在一般について首尾一貫した見方を与えるものではない。経験が理解に優越するのは、唯一、それを含み、従属的な要素にすることによってのみだと私には思える。そして、そうした経験は自己意識には見いだすことのできないように思われるものである。

 

 そして、(iii)既に記したような自己意識のすべての形について私はこの最後の反対意見を主張せざるを得ない。対象と主体とがまったく同じである、あるいはその差異のなかでの同一性が知覚の対象であるとき、実際のところいかなる知覚も存在しない。そうしたいかなる意識も心理学的に不可能に思われる。そして、この点について読者の先手をとろうとすることなど無駄なことなので、非常に簡単に述べることで満足しなければならない。自己感情とは異なる自己意識は関係を含んでいる。それは、自己が精神の前に立ち対象となっている状態である。このことは、ある要素は感覚される塊と対立し、非自己として区別されていることを意味する。そして、自己が、その多様な意味においてそうした非自己となることができるというのは疑いない。しかし、どのような意味で我々がそれを考えようと、結果は同じである。対象は決して主体と完全に一致することはないし、感情の背景には我々がある瞬間に自己として知覚できる以上の大量のものが含まれているに違いない。この点についてどう論ずればいいのか私にはほとんどわからないことを告白する。私には、自己のすべてが一回の知覚で観察できるなどということは単なる妄想に思える。まず最初に私は背景に内的感覚の曖昧な残余が残っているのを見いだすが、多分それを対象と区別することはできないだろう。そして、この感覚されている背景には常に外的感覚からの諸要素が含まれていることも確かだろう。他方、対象としての自己がある時において含むのはごく貧弱な細部に過ぎない。自己が背景よりの非常に狭いことは明らかであり、隠しようがない。この感覚される塊を余すところなく述べるためには(実際のところ、もしそれが可能ならばだが)、我慢強い一連の観察が必要であり、どの場合においても対象が主体と同じ程十分に観察されることはないだろう。(1)意識の対象として自己の全体を感じとることは問題外と思われる。そして、更に、自己が非自己と対立するものとして観察されるところでは、すべての関係はこの背景のなかに含まれ、他方においてその背景に対立するものとして区別が生じるということを読者の皆さんには思い起こしてもらいたい。

 

*1

 

 このことは次のような反対意見を呼び起こす。もし、自己意識があなたの言ったようなものならば、どのようにして我々はある対象を自己に、別の対象を非自己として受けとるのか、ということである。観察される対象はなぜ自己の性格をもったものとして知覚されるのだろうか。私が思うに、この問題は、少なくともここでの我々の目的に関わる限りでは答えるのに難しくはない。最も重要な点は、感情の統一性は決して消え去りはしないということである。まず最初に、差異化されていない塊が私との関わりにおいて対象となる。そして次に、「私」というものが明確になり、感情の背景との関わりにおいて対象となる。しかし、それでもなお、対象の非自己は個々人の魂の一部であるし、対象となった自己は感得されている統一性のなかに場所を占めている。区別というのはそれに続いて起るが、それが元々ある全体を分断することはない。もしそうしたことが起ったら、結果は破壊的なものとなろう。それ故、自己意識においては、自己として知覚された内容は個的な全体に属している。第一に全体性として感じられる。そして、その内的な集合から非自己が区別される。最後に、内的な背景に対峙する対象となるのである。その内容物は同時に様々な形をとって存在している。そして、非自己がいまだ心的に私のものだと感じられるように、自己が対象となっても、私とは切り離すことができないように感じられる。そうではなく、我々はこの感情の統一を反映しており、自己と非自己とが一体になった自己が我々の対象なのだと言うことができるかもしれない。もしそれが反省の対象だというならそれは真実である。しかし、この反省には再び事実上の主体がある。そして、この事実上の主体は対象よりもより豊かな感情の固まりである。そしてその主体はどのような反省でも対象とはならない。非自己と自己とが一つになった自己は、実際、主体の前にもたらされ、そのようなものとして感じられる。感情の統一は知覚と思考の対象となることができ、いまあり知覚する主体の自己に属すると感じられることも可能である。しかし、心理学的に微妙で困難な点を考慮せずに、その主要な帰結を確言することができる。事実上の主体は、どのような心的状態にあるのだろうと、対象としてもたらされることは決してない。それは、少なくとも、その自らの領域内では自己自身であると感じ、感得された統一と同一だと感じとるものの前に立つ。しかし、事実上の主体は、対象に自分のすべてが含まれている、内部にはなにも残ってはいない、そして差異は消え去ったと感じることは決してないだろう。このことは観察によって自分自身で確かめることができる。結局、主体は感じとれるには違いないが、(現にあるようには)決して知覚されることはできないのである。

 

 しかし、もしそうなら、自己意識は我々の以前からの難問を解決することはできないだろう。というのも、ある全体のなかでの自己と非自己との区別は、私の自己の実在さえもあらわしてはいないからである。それは実在のなかで見いだされるものとして与えられるが、実在を汲みつくすものではない。しかし、たとえ自己が自分にはできないことをし、実在としてそのありようを保証されるとしても、我々は途方に暮れるだけだろう。というのも、もし我々が首尾一貫したありようを考えることができないなら、我々はそれを実在についての真実だとは認めることができないからである。それは単に不可解で欺瞞的な経験となるだろう。そして、我々の見るところ、そうした経験は現実には存在しないのである。

*1:(1)この一連の観察が可能であるかどうかは、同一性と変化とが知覚されないところでも感じられるかどうかにかかっている。93頁参照。

ブラッドリー『仮象と実在』 53

      ((a)感じとしての自己は幾つかの理由から擁護されない。)

 

 この問題は、新たな観点をもたらす特殊な経験を見出す可能性をあらわしているように私には思える。もちろん、自己が新たな問題をもたらし、複雑さが増すことになるのは認められる。議論になっている論点は、それが同時に、実在についてのすべての難問を解く何らかの鍵を与えてくれるかどうかにある。それは、どのように多様性が調和するかについて我々が理解する助けとなるような経験を与えてくれるだろうか。あるいは、それに失敗し、そうした理解に必要なものを除去してしまうのだろうか。私はどちらの問いにも否定をもって答えられるに違いないと確信している。

 

 (a)単なる感情、探求をここから始めることにするが、感情では我々の謎の回答にはならない。感情を十分低いレベルでとれば、多様性の統一があり、矛盾がないと確かに言うことができる。そこには関係も項もなく、他方において、単純である以上の現実的な事実として具体的な全体が経験される。そして、この事実は、我々の自己を理解させるものである、あるいは、少なくとも、単なる知性による批評よりは優れていてそれを越えたものだと主張されるだろう。それがそのようなものだとは認められようし、その実在は知性によっても他に類のないあらわれとして認められるに違いない。

 

 しかし、こうした主張は支持できない。まず指摘できるのは、感情がもしあらわれであるにしても、全面的に自己のあらわれであるのでも、あるいは特別に自己をあらわすものでさえないということである。そこで、二つのうちのどちらかを選択しなければならない。そうした不整合を無視しうるに十分な程の低みには下りないか、あるいは主体と対象がいかなる意味でも区別されないようなレベルまでに達するかだが、当然そこでは自己もその対立物も存在しない。感情が直接的な表象としてとられるなら、そのほとんどが後に環境となるものの特徴を備えているのは明らかである。そしてそれらは後に自己となるものとひとつで分かつことができない。それゆえ、感情は宇宙の他の要素と区別されるような自己の唯一無比な、あるいは特殊なあらわれとは成り得ないのである。たとえ、感情を、誤ってはいるが、快や苦痛と等しいものとして用いるにしても(1)我々は結論を変える必要はない。この点については、当然多くの教義による主張があるが、どの議論も真剣な吟味に耐えるようなものではない。ある快適な感情があったとして--例えば暖かさ--どうして快の側が自己に属し、感覚の側が非-自己ということになるのか(心理学的あるいは論理的に)私にはまったくわからない。事実に即するなら、はじめにはそうした区別はまったく存在しないことは明らかであるように思われる。そしてずっと後の段階になっても、非-自己のなかに元々あった快や苦痛の要素が保持されていることがあるのもまた明らかである。そこで、我々は次のような結論に至らざるを得ない。快と苦痛がもっぱら自己に属し、非-自己とは区別されるという教義は形而上学的にはほとんど使用する価値のないものである、と。この教義自体がまったく根拠のないものである。最初に自己と非-自己が存在するということさえ真実ではない。そして、たとえ快と苦痛が後に自己と非-自己との区別の根拠となる主要な特徴だということが本当だとしても、それらが対象に属さないというのは誤っている。

 

*1

 

 しかし、我々がこの誤りを去り、再び差異がないという意味での感情に戻ったとしても、そこには我々が求めているような知識がないと見ざるを得ない。それは実在を捉えるには余りに不完全な見解である。第一に、その内容と形式とが一致していない。そのことは、感情が瞬間毎に変ることで明らかである。そのとき、我々の前に調和をもってひとつのまとまりとして現れるはずの事物は、明らかにその内部で矛盾したものとなる。内容はその本質的な関係性を明らかにする。つまり、事物は現にあるようであるために、自身以外の何物かに依存している。感情は、単純ではないにしても、すべてがひとつとなり、自ら囲い込むものであるべきである。その本質には、異なった存在に従属し、関連する事物が含まれるべきではない。それは実在であるべきで、その意味で部分的にも観念的であるべきではない。そして、直接性の形式においてあらわれるものには、この自律して存在する性格が含まれている。しかし、変化において、内容はこっそりと去り、なにか別のものになる。かくして、再び、変化は必然的で、存在に含まれたもののように思われる。変りやすさというのは、我々が経験する感情における事実であって、決して途絶えることなく続いている。そして、もし我々がある瞬間における内容を調べてみるなら、それが自律して存在するものとしてあらわれているにしても、深いところで関係性に侵されていることに気づくだろう。そして、このことは、まず変化の経験において、後に反省において視野に入らざるを得ないだろう。第二に、この反対意見を離れて、感情が矛盾のないものであったとしても、それは実在の知識としては十分ではないだろう。実在とは、通常、項と関係を含むものとしてあらわれ、実際、主としてそうしたものからなるということができる。しかし、感情の形式は(他面において)諸関係の水準の上位にではなく下位にある。それゆえ、関係を表現することも説明することも可能ではない。かくして、諸関係をもつ事物を理解すべき対象とし、感情がそれを何らかの形で理解すると仮定するのは無駄なことである。そして、この反対意見は致命的なものに思われる。かくして、我々は最初は変化によって、次には執拗に抵抗し続ける関係の形式によって感情を越えざる得なくなる。そして、再び我々が反省に従事したとしても、進展はないように思える。というのも、感情によって事物に与えられる不完全性と関係性は、それについて反省するときに明らかな矛盾だからである。その限界はなにか感情以上のものを指し示しているように思われ、自律して存在する事実は観念性を示し、我々は支えを見いだすことのできない単なる従属物のまわりを経巡ることとなる。それゆえ、感情は難問の解決とはなり得ず、その限りでこの問題は解決されないことが証明される。その内容が古くからの不整合によって完全に損われている。同一性と多様性、直接的な一性と関係との間にある矛盾がより明らかな形で我々に襲いかかってくるとさえ言えるかもしれない。

*1:(1)私はこうした限定された使用法は間違っていると思うが、もちろん、合理 的ではある。他方、他の使用法の存在を無視することは弁解できない。