ブラッドリー『仮象と実在』 99

     ... (誤りは分割と再配列によって真理となりうる。)

 

 矛盾を取り除く唯一の方法が存在し、それは分解による。ある要素が抜き去られる代わりに、区別をもったより大きな要素を得て、対立が取り除かれる。最初はcとbという衝突し合う不整合な性質をもったAをもっている。このなかに区別をもたらすことによって我々は調和を得る。実際にあるのは単なるAではなく、Aの内部にある複合物であるか、(この場合むしろ)Aが含まれるより大きな全体である。実在するのはA+Dである。この主辞にある矛盾は分離によって無害なものとなり、Aがcで、Dがbである。これが一般的な原理であり、それを個々の例に当てはめてみよう。X(a b c d e f g・・・)という実在があり、この実在について部分的な見解しかもつことができないとしてみよう。最初に、「X(a b)はbである」という見方をとってみよう。(正しいか間違っているかはともかく)、これは真の見方であるということができよう。内容bが主辞に属していることは明らかだからである。更に、そのあらわれもまた――つまり、述部におけるbの分離――も部分的に説明することができる。この分離に答えるために、主辞に新たな<別の>形容を仮定するからである。それをβとしよう。「これ性」、最初は無視されていた述部の心的な存在もまた主辞に包含される。そこで我々はこの主辞をX(abβ)と書くことができる。こうして我々は矛盾を避けるように思われる。同じ考え方に従い、過ちと隣り合わせの真実について考えてみよう。再びX(abcde・・・)という主辞をとり、「X(ab)はdである」と言ったとしよう。dは主部に存在しないもので、矛盾があるためにこれは間違いである。しかし、この衝突は、主部をX(ab)ではなく、より広いX(abcd)とすることによって解決する。この場合、述部のdが適用される。つまり、誤りはdをabに関係づけたことにある。同じようなことは、abをcに、cをdに関係づけることによっても起きる。これらすべては主部に存在し、実在はこれらの「なに」と「これ」とを有している。しかし、こうした分解できない側面を暫定的に分離することで満足せず、(真の現象でのように)aα、bβ、dδ――諸性質に不調和をもたらさない典型的な区別の形――をもっていることに満足せず、我々は更に誤りの方向に進むのである。我々は「なに」と「これ」とを遊離させ、現象をつくりだすだけではなく、実在する主部に間違った性質である「なに」を与えるのである。我々は「なに」と「これ」の糸を交差させることで衝突を生み、その衝突は事物が全体として考えられることで消え失せる。

 

 私は物事を完全に説明することはないので、比喩を使うことは避けるようにしている。作家は共通の難点を解決する助けとなるものとして、疑うことなくそれを大切にしている。そうすることで、恐らく、人を惑わす悪意や読者に対する投げやりな態度に従っているのである。それが当然だと思っている者に対して、私も一つの物語を語ろう。その魂が夜になると身体なしに歩き回り、新たな関係をつくりだすという存在の集団を想定してみよう。朝になって魂が帰ってくると魂が外で得たものを感じ取ることができるのである。それゆえ、我々はそれを真実と呼ぶことができる。しかし、もし、不正な魂が経験を得て不正な身体に帰ってくると、典型的な誤りがもたらされるだろう。一方において、この存在の支配者は、衝突の性質を非常によく見て取ることができる。それを挑発することさえできる。異質な経験を引き入れ、感覚の混乱をもたらすことはいかにも有益で楽しいことだからである。恐らく、どんな真実もこうしたあらっぽい不調和の結果の半分も豊かであったり、真に迫っていたりすることはなかろう――それをまっただ中で体験する者には。もしそうなら、誤りというのは単に孤立や欠陥から、各存在が「これ」や「私のもの」に限定されていることから生じることとなろう。

一言一話 6

 

 

リズム・時間

 リズムが構造に働きかけることをよく示している実証的な実験が、いくつかある。・・・もしフォスゲンCOCL2に、振動数がちょうど<塩素三五>の帯スペクトルに入るような紫外線をあてたとすると、このフォスゲンから<塩素三五>だけを分離してとりだすことができる。<塩素三七>のほうは、あてた紫外線のリズムに同調せず結合状態のままとり残される。この例で分かるように、輻射は物質を解きはなつのである。リズムに支配されるこれらの反応をそのあらゆる細部にいたるまで理解することが無理だとしたら、それは時間にたいするわれわれの直観がまだ相当に貧しいことによるのである。われわれは絶対的な始まりと、連続的持続についての直観をもっている程度にすぎない。この無構造の時間は、最初に見たときには、あらゆるリズムを自分に受け入れる能力をもっているように見える。しかしそう見えるのは見かけだけで、それは時間の実在性を連続的なもの、単純なものと見込んでいるからなのである。これにたいして、ミクロ物理学というこの新しい領域では、時間の驚異的な作用のすべては明らかに非連続的なものと関係している。ここでは、時間は持続によるよりも、反復によって作用することが多い。

 

 時間がリズムによって成り立っているとすると、持続的時間と思われたものは非連続的なものになる、あるいは死の概念もわ変わるかもしれない。持続的なものが中断されるのではなく、むしろリズムが途絶え、初めて真の持続が始まるのだから。

ブラッドリー『仮象と実在』 98

    ... (誤りはいかようにか、実在に属している。)

 

 問題は誤りと絶対との関係にある。虚偽の現象がどうして実在のなかにあることが可能なのだろうか。我々は幾分かは誤りがなにによって成り立っているかを見ているのでもあるが、我々本来の問題にも直面している。自己矛盾する性質づけが事実として存在し、それがどのようにして実在となりうるのだろうか。内容の自己矛盾は実在に属するとともに、属することができない。関係する諸要素、その総合、存在との関係――それらは無視することができないものである。それを咎めることはできるだろうが、咎めてみても、それらをすべて廃棄する呪文として働きはしないだろう。もしそれらが存在しないなら、それらを判断することはできず、存在しないと判断することになる。或は、なんとかして、実際に存在することなく、外面的に存在しているのだと言い張ることになる。この難問からの出口はどこにあるのだろうか。

 

 事実の全体を受け入れ、それを修正し補っていく以外に方法はない。誤りは真実で<あり>、部分的な真実であって、部分的であり、不完全であることによってのみ間違っている。絶対はなんら差し引かれることもなくそれらすべての性質を<もっており>、我々の間違いによってもたらされるような配列もすべて有している。唯一の失敗は、我々がそれを補正するものを提示できないところにある。実在は間違ったあらわれの不調和や矛盾を有している。しかしまた、こうした衝突が十全な調和へと呑み込まれ、溶解するような性質をももっているのである。<我々に>与えられたものを単に再配列するだけで、<我々が>その矛盾を取り除くことができると言いたいわけではない。能力は限定されており、我々は全体のすべての細部を把握することができないからである。誤りとして咎められる古い配列のすべては、それ自体がそうした細部の一部であることを記憶に止めておかねばならない。良いものであろうと悪いものであろうと、すべての結びつきを含めた宇宙のすべての要素を知ることは、有限な精神には不可能である。それゆえ、我々には矛盾を完全に再構築することができないのは明らかである。しかし、一般的に、細部において見て取れないものも理解することはできる。我々には、絶対において、どのようにして豊かな調和が個々のあらゆる不調和を包摂するのか理解することはできない。しかし、他方において、こうした結果に達することは確信をもつことができる。そして、有効な原理について不完全であるがある考え方を得ることもできる。このことについて説明してみよう。

一言一話 5

 

 

天保四年から八年にかけての飢饉のときのこと

天保四年の春、尊徳は茄子を食つて、それが秋の味であることを感じあて、ただちに異変を未然に察し、農民に誡してあらかじめ稗を作らせておき、やがて本物の秋が害悪を孕んで立ちはだかつたとき、よくひとびとの難を救つてゐる。

 

 

幸田露伴は「二宮尊徳」という子供向けの伝記を書いているが、同じエピソードはのっていなかった。

武蔵野の蔓に実となる大飢饉

ブラッドリー『仮象と実在』 97

  ... (誤りは実在と調和しないために実在によって排除される。)

 

 1.誤りが実在によって排除されるのは、実在が調和し、必然的にそうとられるべきである一方で、誤りが自己矛盾しているからである。それが(もしそれが可能なら)存在と一致しない内容だと言いたいわけではない。※1観念としての内的な性格そのものが不調和で、自己矛盾していると言いたいのである。私は誤りを自己矛盾する<述語>と呼ぶことを好まない。そうした発言は、判断が試みられる<以前に>、矛盾が単なる述語として既に存在しているととられるからである。それは、もし擁護することができるとしても、誤った方向へ導くものとなろう。誤りは実在の性質づけであり、その結果において不整合な内容をもっているために排除されるのである。存在が自身と衝突する「なに」をもっているとき、この「なに」という述語は誤った判断である。もしある実在が整合しており、更なる限定が不調和をもたらすなら、附加したものが誤りであり、実在は影響を受けない。しかしながら、その本性が不調和に関わっていないと想定されるときにのみ影響を受けないのである。そうでなければ、全結果が虚偽に汚染され、実在は矛盾から純粋さを保つことが決してできないことになろう。※2

 

 

*1

 

 

 この誤りに対する一般的な見解は、あり得る反論に答えることでより明瞭になろう。誤りは、ある人たちには、経験、或は経験によって与えられたものから発すると想定されている。ある場合には、内的なイメージと外的な感覚との混乱によるとされる。こうした見解は、もちろん、もっとも皮相的なものである。単なる所与を見いだすことの困難、真実の検証法として常に実際に存在する感覚を使用することの不可能性は別としても――外的な感覚は決して誤ることはないという奇妙な偏見と、「内的なもの」が「外的なもの」と同じくらい確実な事実だと理解することのできない鈍感な盲目さも別として――この反論はきれいに片づけることができる。というのも、もし与えられたものが調和のない内容をもっているなら、どうして我々は実在ではない内容を「与えられたもの」として受け取ることができるだろうか。これを否定するにせよ、与えられたものには決して矛盾は存在しないと主張するにせよ、それはご自由である。同じ見解をより説得力のある形で考え進めることもできよう。「我々は自分の都合だけで述語をつけ加えたり、取り去ったりはしない。任意の結果が眼に見えて自己矛盾しない限り、それを真実とも思わない」と言うこともできる。我々がそうすべきだと言っているわけではない。

 

  外面的に知られる真実と誤りについては、もちろん、単純に無視することができる。※1つまり、あらゆる場合において、主張は正しいか間違っているかでなければならない。しかし、現在の場合、どちらでもないことがあり得る。他方において、<もし>言述が誤りであれば、その内容が内的に衝突しあっているためにそうなのだと我々は知っている。「しかしそれは」と反論者は答えるかもしれない、「この場合には当てはまらない。ある時、ある出来事が起こる、或は起こらないという発言をとってみよう。これは事実との不一致のために間違いかもしれないが、自己矛盾があるために間違っているというわけではない」と。だが、私はまた、我々は事実との対応の欠如を咎める更なる根拠を有しているのだと主張しなければならない。というのも、そうした根拠なしに、どうして我々は或は事実はこうした欠点に対する反論をすることになろうか。ウィリアムが首つりにされたとき、私がそれをジョンだと主張すると仮定しよう。現実は両方の出来事を認めるわけにはいかず、ウィリアムだということは確かであるから、私の主張は間違っているだろう。もしそうなら、結局、私の誤りは実在に自己矛盾した内容を与えたことに存することは確かである。別の場合、ジョンが示唆されたなら、私はその観念を排除することはできなかった。確かにウィリアムだったが、私が知る限りではジョンもそうだったとせいぜい言えるだけだろう。しかし、現実的には次のような過程が辿られる。「ジョンであり<かつ>ウィリアム」であるというのは不整合な内容であるから、この発言は、それがジョンだという限りにおいて間違っている、と。※2同じように、もし誰もいないのに、ジョンが存在すると主張されたとすると、欠如を示す判断の性質については論じることなしに※3、その間違いを理解することができる。実在に不整合となるようなこと、その結果間違いであることを強いてみるわけである。容易でもあり、また無益でもある問題の追跡を更に行なうこともできよう。以上のことを考えてみた読者には、我々の主要な結論は既に達成されていると信じねばなるまい。誤りは自己矛盾による性質づけである。述語を通常の意味にとれば、あらゆる場合に矛盾がそのなかにあると位置づけるべきではない。矛盾が性質づけの結果のなかに見いだされる場合に、我々はそこに誤りをもつのである。これで、この章の第二の主要な問題に移るとしよう。

 

 

*2

 

*1:

※1最終的には、限定的な述語や主語はいずれも調和のあるものとはなり得ない。

※2この説は第二十四章で修正される。限定的な述語や主語は決して真に自己整合的であることはあり得ない。

*2:

※1より以上の説明については、第二十七章参照。

※2ここではなぜウィリアムではなく(或は両人ではなく)ジョンが犠牲になったのかという問題には触れないことにする。

※3第二十七章を参照。

一言一話 4

 

Original Jelly Roll Blues

Original Jelly Roll Blues

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ジャズは、甘美に、ソフトに、たっぷりのリズムで、スペイン風の味付けをもって演奏すべきである。 ジェリー・ロール・モートン

 

 

ジャズは1803年以前のフランスの植民地であったルイジアナの坩堝のなかでぐつぐつと煮えたぎったものが噴出したといわれているが、フランス領になるまでは、スペインによって統治されていた期間もあるので、この言葉があるのだろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 96

... (誤りは現象であり、虚偽の現象である。)

 

 心理学や論理学では、問題はより容易である。誤りは間違った推論と同一視され、典型となるモデルと比較することができる。また、それが進む各段階を示すことができる。しかし、こうした探求は、いかに興味深いものであっても、大して我々の助けにはならないものであり、ここではより直接的に問題に取り組むよう努めねばならない。我々の立場を観念と実在との区別におかねばならない。

 

 誤りは虚偽の現象と同一であるか※1,(もし読者がそれに反対するとしても)少なくとも虚偽の現象の一種である。現象は存在と一致した内容ではなく、「これであること」から解き放たれた「なに」である。この意味において、あらゆる真理は現象であり、そこには性質と存在との分離を見て取ることができる。真である観念は、その内容に関する限り、実在の形容である。その限りで、存在を取り戻し、存在に属する。しかし、観念にはもう一つの側面、何ものかであり、たまたまなにかである個別的な存在をもつ。内容としての観念は、そうした出来事としての存在からは疎隔されている。現前する全体をとり、幾つかの特徴づけをしたとしても、それに変わりはない。性質づけられた内容は存在とは異なったものだからである。ある側面において、それは全体との単純な統一には止まっておらず、また、性質づけられることで単なる特徴から別の異なった事実に変わるわけでもない。「砂糖は甘い」において、砂糖に認められた甘さは砂糖と切り離され、我々の心のなかで第二のものとなった甘さでは<ない>。事物としての存在をもち、砂糖を性質づけるというのは明らかに不条理であろう。存在という観点において、観念は常に単なる現象である。個別の実在から分離したこうした性格は、通常より明白なものであり、観念は現前からとられるのではなく、再現によって供給される。述語がイメージから供給されるところでは、そのイメージの存在は述語と同一のものでは<ない>と見ることができる。それは明らかに判断の埒外にあるもので完全に無視される。※2

 

 

*1

 

 

 現象は存在と性質との遊離であり、直接的な一なるものが「これ」と「なに」に区別されることである。この遊離は更に分裂にまでなり、二つの存在が分離してしまう傾向にある。現象は、その存在とは異質の内容がその性質を受け入れるなんらかの事実と関連するときに真実となるだろう。真の観念は事実と出来事としての存在という点において現象であるが、それが性質づける他の存在との関係においては実在である。他方、誤りは実在から遊離した内容であり、矛盾する実在と関連している。それは遊離した観念の存在ではない存在による観念の排除である。自由になった形容詞の実詞による撃退である。※1かくして、それは単にあらわれるだけではなく、虚偽でもある現象である。別の言葉で言えば、観念と実在との衝突である。

 

*2

 

 誤りと真実、そして両者の区別には重要な問題があり、我々に精査を促している。しかし、それらの問題については後の章に譲る方がいいだろう。ここでは、限定的に、できる限りの力を使って、二つの主要な問題を考えることにしよう。誤りは、存在と一致することもなく、実在の形容として許されることもない内容である。もしそうなら、こう問わねばならない(1)なぜそれは実在によって受け入れられないのか、そして(2)にもかかわらずどのようにして実際には実在に属することができるのか、である。この最後の結論が必然的であることは既に見た。

*1:

※1 第二十六章参照。

※2 164ページと比較せよ。

*2:※1形容詞がこの或はどの実詞から自由になるかにはなんの相違もない。