一言一話 151

下村亮一『晩年の露伴』から。

 

吸物料理二つ

 「くわえという奴は、あのままではそれほどうまいものではないが、これをすりつぶして、揚げ物にするんだ。そして、これを吸物に入れて供すると、このくわえの味を、すぐ何だと当てる人はまずいないほど、独特の味をもっている。これなど料理のやり方で、微妙なものに変化するものの代表的なものだね」(・・・)

 女人は、ありあわせの卵一個で、即座に、塩味だけの汁の中に、その白味を箸の先でつまみ上げながら落とすと、汁の中にはきれいな白玉が浮かび上がる。それに季節のものでもあしらえば、立派な吸物が出来上がった。

「くわえ」というのは慈姑のこと。想像するだけで自分ではやってみないというのが、つくづくだめだな、と痛感。痛感しても結局やらないんだろうな、とそろそろ諦観。

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 6

 しかし、この達成のなかにも難点がある。本質的なものとして社会的過程を強調することは、進歩的単線的な発達と関連する、根強く残っている合理主義の一種、社会の「科学的法則」を発見しようとする傾向の一変種だと性質づけられる。それは本質的な部分を弱め、より手段に重きを置いた観点を強化する。また、物質的な歴史を強調することは、特に体制では避けがたい論争のなかでそれを行なうことは、ある種の妥協を生みだした。次の根本的な動きとなる文化的歴史の物質化の代わりに、それを依存的で、二次的な「上部構造」、基礎的な物質的歴史によって決定される「単なる」観念、信念、芸術、慣習などの領域とした。ここで問題になっているのは還元のことだけではない。観念論的な文化思想の主導的な傾向であった、物質的な社会的生からの「文化」の分離が、形を変えて再生産されているのである。かくして、本質的な社会過程として、特殊で異なった「生の様式」を創造するものとしての文化の概念、物質的社会過程を強調することで著しく深めることのできる文化概念の充分な可能性が長い間失われ、しばしば実際には、抽象的で単線的な普遍主義にその地位を奪われていたのである。同時に、「知的な生」や「諸芸術」を定義づける文化のもう一つの概念の意味づけは、あからさまに「上部構造」に還元されることで妥協し、それが観念化される過程において、社会や歴史との必然的な関係を絶つ者の手に委ねられ、心理学、芸術、信仰の領域で、人間の本質的な過程についてのもう一つの意味を力強く発展させていった。二十世紀になって、この種の意味が、本来のマルクス主義の介入に含まれていた、そしてそれがほぼ明らかなものとした真の挑戦には直面することなく、なんらかの根拠をもって誤りだと言えるものを攻撃することで、マルクス主義を圧倒し、息の根を止めた。

 

 もちろんいまでは、非常に多くの異なった体系や実践に編入されている「文化」という概念の複雑な発展において、十八世紀や十九世紀初期の形成期において繰り返し立ち戻られた一つの重大な問題があるのだが、それがマルクス主義の最初の段階においては完全に無視されるか、あるいは少なくともまったく発展させられなかったのである。それは人間の言語に関する問題であり、それは「文明」の歴史家には最重要であり、ヴィーコからヘルダー、そしてそれ以後にわたる「文化」の本質的な過程についての理論家にとっては中心的な、決定的な問題でさえあった。実際、「本質的な人間の過程」という観念が意味するところを十分に理解するためには、我々は言語の変化する概念に目を向けなければならない。

 

ブラッドリー『論理学』 13

[判断の始まりに必要とされる条件。21-22]

 

§21.観念が知識の対象となり、真と偽が判断に入り込んでいく過程を段階をおって詳細に述べることは困難であろう。この困難さの他に、常に生じる事実に関わる問題がある。ある発達の段階があるとき、判断は既に存在しているかどうかである。真と偽との区別は一般的に言語の習得と結びつけるのが正しいのだろうが、どこで言語が始まるのか述べることは困難である。そして、言語以前の段階においても、結果的に確かに感覚と観念との区別を示唆するような心的現象が存在する。

 

 来るべき変化に対する予期を常に厳密な拠り所として用いることはできない。多くの場合において、現在に対立する未来の知識を誤って仮定することがあるのは明らかなようである。少なくとも、感情を伴った、あるいは感情によって変化したあらわれが、結果的にもっとも明確な観念と同じくらい実際的であるのは確かである。しかし、ある種の動物ではより強い徴候が存在する。獲物の捕獲に目に見えないような仕掛けが使われるとき(32)、異なった状況、いま実際にあるものと予期されるものとが心になければならないことは確かである。そして、欲望が満足されない場合には、対象に向かい合ったときのように単なる感情が魂中に行き渡るわけではない。現在の知覚とは相容れない欲望されたもののイメージがつきまとい、注意をひき、苦痛感は両者の違いが認められるまでは対照をより激しいものにするに違いないと思われる。我々がここで述べることができるのは、恐らく変化の外面的なしるしということになろう。動物を飼っているものならば、彼らが常にそしてますます用いることになるのが命令法だということを観察し損うことはあるまい。彼らは、少なくとも、なにを欲しているか知り、助けを予期し、それが応じられないときは驚いているように<思える>。観念が欠如し、感情が切迫しているために正常な状態が損われているために、こうした解釈はときに現象をねじ曲げることにもなろう。

 

*1

 

 しかし、もしそうだとすると、判断とは言語以前に発生しなければならず、人間に特徴的なものだとされなくなるのは明らかである。そして、言語が発達した後であっても、我々はしばしば判断なしで済ますのである。我々の思考の最も低次のものであっても、そしておそらくは最も高次のものであっても、言葉なしで行なわれることはあり、とすると、言葉が発達する前に、判断の<本質的特質>は既に存在していることになる。

 

 我々はこのことから生じる議論には関わらない。判断ということで我々がなにを意味しているのかを知りさえすれば、それがどこに最初にあらわれ、どの動物が最初にそれを得たのかは我々の目的にとってはほとんど関わりのないことである。この問題は容易に解決することのできないものであるが、ついでにある考え方を示唆しておこう。ある動物の心のなかに、感覚にあらわれているものと同時にイメージが存在し、そのイメージは部分的には感覚と同一であるが、それと齟齬もし、あらわれとの関わりにおいて行動へ導くものであることを示しただけでは十分ではない。こうしたことが全てあったとしても、まだ<本質的特質>が欠けているからである。イメージは単なるあらわれとは見られず、まったく実在ではないか、感覚より実在性のないものだと見られるかもしれない。というのも、もしイメージが知覚との関わりにおいて捉えられると、両者は一つの連続した事実として理解されるかもしれないからである。獲物は追跡されかつ捕えられたものと<見られ>、実際の対象は欲望されたものに変わるよう思える。失敗がそれを不可能にしたときに、結局の所欠けているのはイメージと対象との知的同一化である。こうした論理的過程を離れても、我々は二つの現実が心のなかで衝突し、その戦いが感じられることがある。それに異議を唱え、放逐することはあるかもしれない。しかし、頭のなかにしかないあらわれに事実を従属させたり降格したりすることはない。この場合、判断が生じることはないだろう。

 

§22.こうした心理学の難問を詳細に議論することは興味深いことであるが、より確かなことに進んだ方が報いは大きいだろう。第一に、誤った観念の<保持>は現実との比較を促し、あらわれ、真、偽の知識へと導く。第二に、言語はそうした真偽の源ではないが、少なくともその対照を確実にし先鋭化する。集団をなす動物が観念を言葉にできたら、ある意味その言葉は思考よりも永続的なものであり、それが表現しようとした事実に対して自律したものとなろう。異なった個人の言葉にされた考えはときに衝突するものである。それらは互いに異なっており、単純な事実についても同じではない。嘘や欺瞞の濫用はどんな頭の鈍い者にも言葉や観念は可能だし真でもあり得るが、幻影で事実との関わりの全くない非実在的なものともなり得ることを理解させる。この点において、言葉と思考は他のものとは異なることが見て取れる。それらは存在するだけではなくなにかを意味するのであり、その意味だけが間違っていたり正しかったりする。それらはシンボルであり、こうした洞察が厳密な意味において判断を形づくる。

 

 もう一度繰り返すが、初期の段階においては、イメージはシンボルでも観念でもない。それ自体が事実であるか、事実がそれを放逐する。知覚においてあらわれる実在は観念を自身に結びつけるか、単にそれを実在の世界から追い払う。しかし、判断は、観念があらわれだと認めてはいるが、にもかかわらずそれを性質づけようとする。それは観念を実在に配し、それが真であることを肯定するか、それが単なる観念であること、事実がその意味するところを排除することを告げる。事実でもある観念内容、現実にはなにも意味しない観念内容がそれぞれ判断においてあらわれる真と偽である。

 

*1:

(32)「獲物の捕獲」もちろん、別な場合ででもある。命令法に関しては、私はこの考えをまだ価値のあるものだと思っているが、ここでは事実の解釈の誤りを正すための注意として強調したのだろう。

 

奇妙な雰囲気――一尾直樹『心中天使』(2010年)

 

 といってもそんな場面は4,5回しか出てこないのだが、この映画を見て屋上が好きだったことを思い出した。要するに世界の生の断片を切り取って、ゆったりと周遊するような映画である。なにも事件が起きないと文句を言うのは間違っている。実際には我々は日々の慌ただしさを生きているだけで、なにも起きない日常というのは十分異常なことだからである。

 

 その昔、奇妙な味と総称された短編がはやったことがあって、いまでも版を重ねているのかどうかは知らないが、早川書房からロアルト・ダールやスタンリー・エリンといったひとたちの作品を集めて、「奇妙な味」シリーズとして集められていたことがあった。簡単に言ってしまえば、軽妙な語り口としゃれた、ひねりのきいた落ちを身上とするものだったが、この映画を見ていて、なんとなくそれらの短編を思い出した。

 

 といっても、奇妙な味の短編に似たところは全くない。そもそも味というほど強いものがここにはなくて、あえていえば奇妙な雰囲気の映画、森田芳光の『家族ゲーム』のようにあざといものではなく、それこそ我々の日常の誰にでも薄く覆っている皮膜の触感を感じさせるというだけで、要するに奇妙という言葉だけ欲しかったわけである。

 

 不思議なことに、こんな自主制作の映画のような題材に、萬田久子麻生祐未尾野真千子内山理名といった市川崑よりも豪華な(私にとっては)女優陣が並び、ついでに國村隼風間トオルまでついてくるのだから、これも奇妙。

 

 それにしても、『心中天使』という題名は、近松もののように心中が起きるわけでもなければ、アニメの『プラチナエンド』のように天使が登場するわけでもないので、まさに羊頭をかかげて狗肉を売る典型のようで、もっと悪いことにダサい。「しんちゅうてんし」とよむそうなのだが、さらにダサい。いっそ、「しんじゅうてんのつかいめ」とでも読ませた方が意味がないだけにせいせいする。

 

 ついでにいえば、愛すべき佳作といえるこの映画、落ちらしきものもついているのだがまったく蛇足である。蛇足でも蛇が龍のように立派な姿になるのならつけたかいがあろうというものだが、ただの蛇足にしかなっていない。食パンがパン焼き器から飛び出るところで終わるべきだった、もっともその場合、もっとバネの強いパン焼き器にする必要はあるが。

一言一話 150

下村亮一『晩年の露伴』から。

 

八百善

 食物のことになると、八百膳の話はよく出た。昭和になって、銀座に浜作が出来ると、ときたま出向いたが、矢張り、料理のことになると、八百善のことになった。八百善の主人がものした、料理の本があるといっていたが、もちろん露伴は、その本を精読していた。おそらく日本料理の本としては、これが最高のものとしていた。

隠れなき名前をよすがにするもののウェブ上で見る八百善門前