一言一話 153

 

正しい死に到るための物語

 有機体は正当な仕方で死ぬために、正しい死を死ぬために生きなければならない。終わりに到達するためにはプロットのアラベスクを経なければならない。隠喩に到達するためには換喩をもたなければならない。

対立するものとして考えられている換喩と隠喩だが、ある意味「正しい」隠喩にたどり着くには換喩を経なければならない。

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 8

 だが、この基本的な仮定のもと、言語の使用について更なる探求を、個別の特殊な方法で企てることができる。現実を示す方法としての言語は論理学として研究される。現実へ接近する断片としての言語、特にものを書くときの決った形式は、その形式上の「外的な」形を扱う文法として研究される。最後に、言語と現実の相違の内部において、言語は人間によって特殊な他と区別される目的のために用いられる道具と考えることができ、それは修辞学やそれに関連した詩学で研究されうる。長い学問的発達を通じ、形式的には中世の三学と結びついている言語研究の大きな三本の枝――論理学文法修辞学――は特殊化し、最終的に異なった学問分野となった。かくして、それらは実際に進歩を見せたにもかかわらず、「言語」と「現実」との基本的な相違についての考察を閉めだし、そうした考察が行なわれるようになる土壌、特にその用語を定めたのである。

 

 それは、記号に関する中世の重要な概念において顕著で、現代の言語思想に再び採用されているのが認められる。ラテン語のsignumからきた「記号」は、しるし、徴候で、本来は「言語」と「現実」の相違に基づいた概念である。「語」と「事物」との介在物という意味で、プラトン的な「形相」、「本質」、「イデア」を繰り返すものであるが、それが言語学の用語として使われるようになった。かくして、ビュリダンの「自然記号」は現実の普遍的、心的対応物で、慣習によって、物理的な音や文字といった「人工的な記号」に結びついている。これを出発点として、言語の活動性(だが、活動性としての言語ではない)に関する重要な探求が企てられ得る。例えば、中世思想の著しく思弁的な文法では、単純で経験的な「名づけ」という考えの底流にあり、複雑なものとしている文や構成法の力が記述され探求される。しかしながら、一方、三学そのものは、特に文法と修辞学は、大いに学ばれはしたが、比較的形式的になり、「古典的な」著作の財産を誇示するだけになっていた。後に「文学理論」として、十七世紀初期からは「批評」として知られることになるものは、この、影響力があり、名は高いが、限定的な様式から発展したのである。

 

 だが、「言語」と「現実」との区別に関する疑問は、結局意識されざるを得なくなり、しかも驚くようなやり方で問題にされた。デカルトは、この区別をより強化し、より厳密にし、それらの判断基準を形而上学や慣習ではなく、科学的知識に根づかせることで、古くからの回答に対する彼の懐疑主義が生みだした新たなる疑問を呈示した。デカルトに対してヴィーコが提起した判断基準は、我々は自分自身で作り上げ、なすものについてのみ完全な知識をもつことができる、というものである。ある重要な側面において、この対応は反動的である。人間は、どんな意味合いにおいても物理的世界をつくったとは言えないが、力のある新たな科学的知識の概念はアプリオリを、以前のような神のための場所を不可能にしているのである。だが、他方において、我々がそれを作り上げたがゆえに我々は社会を理解することができると主張することで、抽象的にではなくそれをつくりあげる過程において理解することができ、言語の活動はその過程の中心をなす、といった風にヴィーコは完全に新たな局面を開いたのである。

ブラッドリー『論理学』 15

[それは精神において扱われる最初の普遍に由来する。24-26]

 

§24.英国では、「経験の哲学」の真理の伝統に忠実なあまり偏見が積み重ねられ、ほとんど事実に対する訴えかけが無効になっているのではないかと私は恐れる。しかし、私はいかに無益なことであろうと事実を述べるつもりである。個々のイメージが連合するというのは真実ではない。低次の動物において普遍的な観念が決して用いられないというのも真実ではない。決して使用されないのは個的な観念であり、その連合で、個別性が刈り取られる過程以外では何ものも連合されることはない。最後の言葉については以下において詳述しなければならないが、ここでは、個的な観念が原始的な精神に最初から備わったものだという誤った主張を扱うことにしよう。

 

 第一に、低次の動物が個物について観念を有していないことは歴然としているように思える。ある事物が世界に一つのものであること、他のすべてのものと異なっているのを知ることは、単純な仕事ではない。それに含まれる識別について考えてみるなら、それが精神に後になってあらわれたことがわかるに違いない。そして、事実に立ち戻ってみると、我々は優秀な知性をもった動物たちが明らかにそれをもっていないこと、あるいは少なくとも、それを有していると考えるに足るどんな根拠もないことを見いだす。過去の知覚から生じ現在の知覚を変容する非限定的な普遍、曖昧に感じとられる型は、明らかに彼らの知的経験の過程である。幼い子供がすべての男性を父さんと呼ぶとき、子供が父親を個的なものとして知覚し、他の男性も個的なものとして知覚するが、当座はついていた区別が混乱するのだと仮定するのは、事実の歪曲以外のものではない。

 

 しかし、これはいま問題になっている本当の論点を指しているとはいえない。個物を知ることは精神段階の後の達成だとは認められるだろう。粗雑な知性にとっては、ある型の観念をもち、それに合わないものを排除した上で、この型を唯一無比の個物と認めることはほとんど不可能である。実際に問題となっているのは、初期の知識においてつくられたイメージの使用法についてである。それは普遍として使われているのであろうか、それとも個物として使われているのであろうか。

 

§25.どちらの側に立っても、心的存在としての観念は他のあらゆる現象と同様個物であることは認められる。論議はその使用に限られるのである。私は、それが個物にとどまっている限り、単純な事実であり、観念では全くないと主張する。そして、経験を敷衍したり変容したりするために用いられるときには、決して個的な形で用いられないのである。A-Bが知覚にあらわれるとき、過去の知覚の結果であるB-Cが個的なイメージb-cとしてあらわれ、呼び起こされたこれらのイメージが現在のあらわれに結びつくのだと言われている。しかし、これ以上の誤りはあり得ない。bとcの個別性を形づくるしるし、関係、相違がA-B-Cの合成のうちにあらわれる、あるいはどのようにしてか、それを生みだすために用いられるというのは真実ではない。そのcとしての内容を別にしたイメージcは心的現象の非限定的な細部をもっている。しかし、A-B-Cにおいて使用されたのはそれではなく普遍としてのcであり、知覚A-Bがそれによってcを再個別化する。もしそうなら、実際に働いているのは、普遍的観念間のつながりだと言わなければならない。我々は、無意識にではあるが、明示されたときには既にシンボルの意味を有しているのである。

 

 後の章でこのことははっきりさせようとは思っているが(第二巻第二部第一章を見よ)、問題が重要なので、あえていくつかの例を挙げておきたい。昨日私の犬が猫を追いかけたか敵と戦ったかした場所に今日着き、その知覚が観念を「呼び出し」、犬は必死に駆け出そうとする。彼の経験は白い猫か、大きな真鍮の首輪をした黒いレトリバーのものであったろう。今日のイメージは多分それほど明確には「呼びだされ」なかったが、いくつかの細部は確かにあり、それが経験を再現するのだろうと我々は思う。今日はそこに黒い猫がおり、犬の方はいつもと変わらなかったとしよう。白いイメージはまったく見当違いのものである。(34)あるいは今日は別のもう一匹の犬がいて、ただその犬が同じようにしてにらみつけるので、いつもの犬がそれを攻撃するとき、彼は知性ではなく行動においてより普遍的だということになる。というのも、全体のイメージではなく、内容の一部が彼の心では働いているからである。彼は小さな犬、白い犬、毛並みのいい犬には目をとめないかもしれないが、そのとき、大きさ、黒さ、毛並みの荒さは典型的な観念として確かに彼のうちで働いているだろう。確かに、観念は個物であり、それは知覚とは異なり、それを区別できないことが動物の欠点だと言うことはできる。しかし、なぜ区別することに失敗するのだろうか。テリアくらいの知性があれば、白の猫と黒の猫、ニューファウンドランドと牧羊犬の区別くらい見てとることができないだろうか。「いいや」と言う者があるかもしれない、「注意を向けさえすれば彼にはできる、たとえ両方ともいたとしても*、彼は注意を向けていないのだ」と。しかしもしそうなら、相違が用いられず働かないままに残されているなら、それは働いているもの、使われているものが、相違のなかで永続し、後に普遍的な意味となる内容の一部だということの明らかな証拠ではないか、と私は言わなければならない。

 

*1

 

*2

 

 また、ある動物がある日台所の火で火傷をしたら、次の日には火のついたマッチを怖がるかもしれない。しかし、二つのことはいかに異なっていることか。似ているところより異なっているところが多い。マッチの火は最初に召喚され、それが台所の火と混同されることがないと影響を及ぼさないとでもいうのだろうか。あるいは、個別的なものではない要素間のつながりが最初の経験によって心に生みだされるとでもいったほうがいいのではないだろうか。しかし、もしそうなら、最初から普遍は用いられ、事実と観念、存在と意味の相違は発達していない知性においても無意識に働いていたのである。

 

§26.これ以上は先走るべきではない。伝統によってお下がりのように伝えられてきた「連合の法則」の虚構性については後に示すことになろう。ここでの我々の対象は、ついでではあるが、判断における観念のシンボル的な使用は、精神の初期のものではないにしても、心的発達の自然な帰結だということである。知性の最初期から働いているのはこの種のものであり、イメージではない。イメージは決して魂に保持されないし、それは可能でもない。そのなかにある諸要素のつながりはすべて置き去りにされる。もし望むなら、それを我々の想像力の無能力といってもいいし、知性の本質である精神の観念化する働きといってもいいが、どの段階においても、なんらかの毀損なしに、個物であるために必要な細部の除去なしに事実が保持されることは不可能だということは変わらない。我々の成長の早い段階にまで、あるいは生命というものの初期の段階に下りていく程、より典型的で個的でない、細かな区別がなくより曖昧で普遍的、広範囲でシンボル的なものが経験の貯蔵庫となっている。意味がまず事実以外のものとして認められるという意味でシンボル的なのではない。分析が関係のある細部と関係のない細部とを区別し、より単純な要素を見いだし、知覚によるものよりも広範囲にわたる総合を行なうという意味での普遍でもない。存在を抜きにして意味をとり、個物を個物として扱わないという意味での、常に所与のものを超越し、どこでであろうと一度経験したものはいつどこででも真であり確実で、最初期の知性も最後期の知性も生の領域では端から端までまったく同一のものであるという意味で普遍的、シンボル的なのである。

 

*1:(34)個的な細部の総計についてここには誇張があるが、原則として言われていることは正しいと思う。

*2:*後に見るように、これは誤った仮定である。第一に、精神がABからCに赴くときには、個別なイメージbを通らねばならないというのは真実ではない。次に、個的なbが現存しているなら、それが本来の知覚Bの性質をもっていると仮定する理由はない。もし白い猫を今日見て、そのイメージが白だとしても、次の日に我々がその猫を見るとき、イメージの白さというのは使われる必要はない。また、その白さが関心の対象ではないなら、イメージが白であり他の色合いではない根拠など存在しない。過去の経験によって残された普遍化された結果とは常に不完全なものなのである。

一言一話 152

 

始まりと終わり 隠喩の換喩的操作による実現としてのプロット

 始まりと終わりはトドロフの「叙述的変換」の好例であり、そこでは始まりと終わりが「同一であるが異なっている」という−−それ自体隠喩的な−−関係にある。しかしながらトドロフは変換の力動的な過程についてはほとんど言及していない。二つの相関する軸の間にあるのは、第二のより十分に意味づけられた隠喩を確立するために、第一の換喩としての隠喩の実現化−−同時にかく得られた結果の仮定的、心理的実現化−−をすることである。我々は非活動的で、「衰弱した」隠喩から出発し、換喩的な過程を通じて復元された差異によって隠喩を再活性化し、実行力のあるものにする。

活性化されたものが、もやは蠢いてとどまらないのが望ましい。

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 7

2.言語

 

 言語の定義とは、常に、明示的にも暗黙のうちにも、世界における人間存在の定義である。主要なカテゴリーとして受け入れられているもの――「世界」、「現実」、「自然」、「人間」――は「言語」というカテゴリーと対置され、関係づけられるが、いまでは、「言語」というカテゴリーを含めたすべてのカテゴリーがそれ自体言語の構築物だと一般的に考えられており、特殊な考え方の体系のなかで努力をしなければ、言語を関連する調査から切り離すことはできない。しかしながら、こうした努力と体系は、思想の歴史の主要な部分を形づくっている。この歴史から発する問題の多くはマルクス主義と関係しており、ある領域では、歴史的唯物論において、受け入れられている主要なカテゴリーの基本的な再評価を敷衍することで、マルクス主義そのものが貢献をしている。だが、意味深いことに、比較すると、マルクス主義は言語に関する思想には非常に僅かな貢献しかしていない。この結果は、言語を「現実」の「反映」だと見る制限された未熟な考え方が当然なものとみなされたのか、あるいは、他の、しばしば対立的な思想体系の内部で、あるいはその形式において発展してきた言語についての主張が他の種の活動についてのマルクス主義の主張と総合され、究極的には支持しがたいのみならず、現代においては社会的主張の力を根本的に制限するものだと見られたことからきている。文化理論、特に、文学理論に与えた影響はとりわけ著しい。

 

 言語に関する思想の発展においてマルクス主義に関心のもたれた主要な場面は、第一には、活動としての言語を重視する点であり、第二に、言語の歴史を重視する点である。どちらの主張も、それだけでは、すべての問題を言い換えるのに充分ではない。それぞれの立場の接続と、それによる再評価が必要である。そして、異なった方法をとり、意味のある実際的な結論が出れば、各々の立場は、世界のなかの人間存在に関する比較的静的な考え方に依存し、それを支えていた習慣的な言語の概念を変えることになる。

 

 活動としての言語に重点を置くことは十八世紀に始まり、それは、「文化」の新たな概念の中心的な要素と見られた、人間が社会を自らつくりあげるという観念に密接に関係している。それ以前の主導的な伝統では、様々な変奏はあるものの、「言語」と「現実」は決定的に切り離されており、哲学的な探求は、その始めからこの明らかに異なった秩序の間の関係を巡るものだった。前ソクラテス的なロゴスによる統一、言語が世界と自然の、神的なものと人間的法や理性とを一つにするものだとする見方は、決定的に崩壊し、最後には忘れ去られた。「言語」と「現実」との決定的な相違は、「心的」と「物理的」活動の間の現実的で実際的な相違に対応する「意識」と「物理的世界」の相違のように、習慣的になっているので、本格的な注意は、当然、とりわけ複雑な結果を生みだす関係やつながりに集中している。プラトンの言語についての主要な探求(『クラテュロス』に見られる)は、名づけの正確さの問題を中心にしており、「語」と「事物」との相互作用は「自然」あるいは「慣習」から生じるものとみなされる。プラトンの解決は結果的に観念論思想の基礎となった。「語」でも「事物」でもない「形相」、「本質」、「観念」といった媒介的であるが本質的な領域が存在する。「言語」や「現実」の考察は、常に、その根っこの部分において、こうした本質的(形而上学的)諸形式についての考察なのである。

ブラッドリー『論理学』 14

[もし連合説が正しいなら、判断は決してあらわれることができない。23]

 

§23.我々が述べてきたことは、心理学的な移行を順を追って述べることではなく、諸段階と諸機能の違いを明らかにすることだった。最後に、我々は致命的ともなる誤りを未然に防ぐよう努力しなければならない。判断をする精神段階と、真理に気づいていない精神段階の間の裂け目は橋を架けるのが困難で、我々の考察は事実をばらばらにしているように思える。自然の条件下ではどんな進歩も可能ではなく、天与の能力でどうにか段階を上がっていくのだとすると、我々は窮地に陥っていると考えられる。我々は、一方では、普遍的である明確な観念をもち、他方では、機械的な誘因の法則によってグループ分けをされる個的な印象とイメージからなる精神をもつことになる。こうした区別は事実上の断絶に等しい。いま述べたような高次の段階は存在することができないか、あるいは少なくとも、低次の段階から発達することはできない。

 

 以下の章で私は「観念連合」の全教義を批判するだろうが、ここではそれを先取りするしておこう。(33)もし精神の低次の段階が多くの英国の心理学が述べるようなものであるならば、観念が判断において使用されるような段階に到達することはどうしても不可能だということは私も認める。これは私が強調し力説したい結論でもある。しかし、「連合」の流行の教義、個々のイメージが個々のイメージよって呼びだされ、それと結びつくという教えは、<いかなる>精神の段階においても真実ではない、と私は思う(第二巻第二部第一章を見よ)。我々の心理学以外にはそれは存在しない。魂の生活の最初期から普遍は用いられている。経験の結果が観念や普遍的なものに固定されているからこそ、動物は、進歩するとは言わないが、剥き出しの存在のなかで身を持していくことができる。

 

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*1:

(33)「連合・・・」第二巻第二部第一章を見よ。「多くの英国の心理学」という発言は、もちろん、1883年当時のものである。