ケネス・バーク『歴史への姿勢』 8

拒絶

 

 「拒絶」は「受容」の副産物に過ぎない。第一に、それは強調点を含んでいる。なんらかの支配的権威のシンボルに対する姿勢であり、権威のシンボルへの忠誠の転換が強調される。正統に対する異端であり、その意味においてそれが拒絶する「受容の枠組」と共通するものを多くもっている。それは思想家から生得権、反芻することなく現実を「消費する」権利を奪う。もし王を色々な方向から十分に考えれば、王の退位を必然として受け入れる枠組を立てる者は、戦略の必然として否定主義的な強調を避けるだろう。こうした厳格さが共産党宣言がテロルのメタファーで始まっている事実を説明するかもしれない。その戦略的地点において(始まりと終りは特に戦略に重要であって、始まりはメッセージを受容する際の色合いをきめ、終りは最後に至るまでしっかりと論題をつなぎ止めておく)、著者は正統的な権威の力によって押さえ込まれ、自分たちの企図を否定主義的な用語で、償却、さまよう幽霊として描いたのだろう。それから奴隷の怒りへと進む。この論調は否定主義的な特質をもち(しかりよりもずっと強くいなを強調する)、文体論的には受容の完全性よりも拒絶の部分性を力説する。

 

 受容の枠組と権威のシンボルとの関係は、必然的に変化を旨とするシンボリストには戦術上の不利であり、彼の発言を歪めることになる。音楽には「否」はなく、――幼児教育者は注意の心理学に「否」が存在しない可能性を示唆している。「そんなことをするな」と言うのは、「それをせよ」と伝える完全な戦略である。このことが、エマーソン-ホイットマン-ジェイムズ流の強調に長いこと慣れ親しみ、それに基づいて社会の考えを築いてきた我が国の人間にある抵抗感に光を投げかけるかもしれない。

 

 この好みはキリスト教擁護に根ざしている。後期封建主義で経済的な圧迫が高まり、人間が不安で好戦的になり、経済的な挫折の影響のもと高まってくる「流動化」が、始めは巡礼、そして次第に軍事的な十字軍としてあらわになってくると、多くなってきた争いの当事者たちをできる限り「救う」ことができるように、教会は速やかに悔悛と免償の情け深い虚構を打ち出した。流された血は神のためのものであり、個人の救いのためのものである。教会は結局、こう言っているのである、つまり、「見苦しい仕事でもやらなくてはならないなら、少なくとも見栄えのいい言葉でやろうじゃないか」と。

 

 与えられていた歴史的枠組は、元々は考慮に入れてなかった新たな要因が生じたことでひずみが生じ、それが裂け目となってひろがることも時間の問題だったが、その信奉者たちは詭弁の才をふるってそれをできる限り拡張しようとした。かくして、教会は戦争のために平安に満ちた虚構を発明し、恐らくは、戦争が静まったときには、平和な用語に固有の特質が再び損われない形で表現されうるはずだと希望したのである。(ちなみに、こうした詭弁的な敷衍は、アメリ憲法が、それが採用されたときには思ってもいなかった法人の自由を法的解釈によって許していることにも認められる。このように、拡張は、「受容」の強調点を先取りし、「拒絶」の強調点を対立的位置に追い込むのである。)

 

 我々は「拒絶」の特徴がマキャベリと共に生じるのを見いだすが、彼は、市民と権威とが同等となる転換を具体的に示し、人間の動機の基礎に「権力崇拝」を置くことで、その「現実政治」に唯物論的な基礎を与えた。ホッブスでは、その君主体系の根本に人間は人間に対して狼であり、全員の全員に対する戦いがあるという鮮やかな図式がある。逆説的な領域では、マンデヴィルの『蜂の寓話』があり、その巧妙な副題「個人的な悪徳と公的な美徳」は商業主義の「あらゆる価値の相対化」への道を示している。新たな経済構造は、このときまでに、新たな道徳規範を必要とすることが十分明らかになるだけの輪郭をあらわにしていた――そしてマンデヴィルの寓話は、ある鍵となる価値、個人的野心についての教会の姿勢を根本的にひっくり返すものだった。教会の道徳体系では、野心は主要な悪徳だった。マンデヴィルは遊戯心をもって、それを主要な美徳に祭り上げる可能性について考えたのだった。人々が貪欲で個人の仕事を存分にすれば、全社会の利益となるほどの大量の商品が生みだされるだろう、と途方もないことを彼は示唆している。

 

 シェイクスピアが『マクベス』で悲劇的に考えた価値の転換をマンデヴィルは上流喜劇の精神で扱った。マクベスは「ファウスト的人間」の詩的な予表であり、自らの運命をどんな対価を払っても完遂しようとする。彼は罰となりうる高慢として野心を捉える封建主義の姿勢とそれを職業の本質と捉える商業主義的姿勢の転回点に立っている。シェイクスピアは古きものとしてそれを恐れているが、新たなものを告知してもいる。マンデヴィルでこの闘争がさほど劇的に考えられてないのは、文学的な効果として用いられているからである。*

 

*1

 

 アダム・スミスまで来ると、新たな規範は正統として枠づけられ、十分な権威を与えられる。スミスは、逆説に訴えることなしに、単にマンデヴィルを合理化している。野心は公的に美徳であるゆえに、個人的な美徳である。功利主義者たちはこの理論を完成させる。かくして、イギリスでは、「諸価値の相対化」は、より封建主義的なドイツでニーチェによって挑戦的に混乱をもって始められる遙か以前から規範化され権威をもっていた。そして、マルクスは、イギリスでの教育によってその支配的立場がわかっていたので、それを拒絶する枠組をつくった。皮肉なことに、彼はスペンサー以前に登場したのだが、スペンサーの楽天的な分解の絵図(同質性から異質性への発展を「進歩」の定義としていることに集約されるような)は、アダム・スミスの経済学の知的建築を完成させるものだった。

*1:*この系統を完成させるつもりはないが、マーロウの『ファウスト博士』もつけ加えておくべきだろう、そこでは新しい価値(「権力ー知識」の)が怖ろしさという意味合いをもって導入されている。劇そのものは、形式的には、世俗的な悲劇の発祥の場である教会の「道徳劇」との密接な関係を示している。古い封建的な視点から新たなブルジョア的基準に直面したときのマーロウの両義性は、彼の過敏さのせいもあるのだろうが、シェイクスピアよりも大きいとさえ言える。