ケネス・バーク『歴史への姿勢』 64

... 不調和による遠近法 Perspective by Incongruity

 

 言葉による「原子破壊」で状況を測る方法。つまり、言葉は慣習によってあるカテゴリーに属している――合理的な企図によってそれをねじ曲げ、隠喩的にそれを異なったカテゴリーに適用する。

 

 実業界によって雇われ、彼らの事業をスコラ主義的に合理化する現代の正統的な経済学者たちは、半封建的なドイツから借り受けた語で、不調和において最もよく定義される。つまり、彼らは「カメラリスト」であり、「内省的に」、官僚体制の「内的調整」だけにしか関心をもたない官僚である。ロシアや、或は我々の政府の「官僚制」の広がりが警告されるとき、もし典型的なアメリカの事業が経営や協力体制などをそのままにしてロシアに移されるなら、いま「個人事業」の一員として厳めしくしている役員たちが自動的に、新たな体制のなかで「官僚」の烙印を押されることを我々に忘れさせようとしているのである。かくして、ビジネスマンとその仲間を「官僚」と呼ぶならば、「不調和による遠近法」を使うことになろう。(我々は意図的に消滅しつつある例を用いたが、それは「不調和による遠近法」が解釈上の名人芸を示すものではなく、最も単純な真実に近づくためのものであることを強調するためである。)

 

 不調和による遠近法、或は「計画的不調和」は洒落に関わる方法論である。「洒落」自体がここでは隠喩的に拡張される。字義通りに言えば、洒落は関係のない語を音のつながりによって結びつける。「不調和による遠近法」は音の基準のかわりに合理的基準を用いることで、洒落と同じように関係のない言葉を結びつける。我々の言語的カテゴリーが慣習によって確立されていることを思えば、「不敬虔な」ものである。

 

 不調和による遠近法の隠喩的拡張は、新たな状況を「構成している」言葉を取り除くことによって解釈するので、決疑論的拡張をも含んでいる。しかしながら、それは新たな出発という「超越」によってなされるものであるので、「堕落」ではない。消極的な密輸ではなく、積極的な手札をあらわにする勝負である。不正確さによって既に堕落した状況を正確に名づけることによって「再道徳化」しようと企図している。

 

 こうした柔軟さは、シェイクスピアの隠喩にある「決疑論的拡張」の基礎をなすものである。例えば、『ロミオとジュリエット』の一節を思い返してみよう。

 

この世に生きとし生けるもの、それはいかに有害なものであっても、

なにらか特別の効験を、この世に与えないものはない、

と同時に逆に、いかに益あるものとても、一度正しい用法を誤らんか、

その本来の性に反して、思わぬ濫用の害をなさぬとも限らぬ。

用法その当をえざれば、徳そのものが悪となり、

活用次第では、悪も時には立派に役に立つ。(中野好夫訳)

 

 

僧ロレンスの「政策」を実行すれば、「計画された」不調和を手にすることになる。例えば、『アントニークレオパトラ』の第五幕第二場で、クレオパトラが蛇の毒牙に身をさらしてこう言う。

 

       静かに、静かに!

これが見えないのかね、わたしの赤ちゃんが乳を吸って

乳母を寝かせつけようとしているのが?(小津次郎訳)

 

 

 「気まぐれバリー」は「不調和による遠近法」を劇全体にまで押し広げようとした。エンプソンの言う「牧歌的」革命を試みる劇を書いた。上流階級の一団が無人島に流される――同じ立場に立った執事が彼らの「支配者」となる。しかしながら、もし我々の記憶が正しいなら、劇はハッピーエンドで終わる。最後の場面でイギリスに戻り――みんな助けられたのである――すべてがもと通りになり――執事ももとの立場に戻る。



 絵画の近年の動向についての本で(最近至る所で引用されているが)、ジェイムズ・ジョンソン・スウィニーは、ある時期、芸術家たちは多様な視点を導入して、同じ対象を同時に様々な側面から見ることを試みたと言っている。そして、そうした分解による分析をしばらく試みたあと、新たな統一を確立するような主導的遠近法を探し始めたのである。これは参照の枠組みを転換しながらも、相対性を常に光の速度に関連づけたアインシュタインの方法に近くはないだろうか。

 

 絵画における遠近法は、個人主義の勃興とともに生じた。観察者の<観点>を強調することで自然を描いた。そして、まさしく個人主義の終わりにあたって、二次元的な絵画に戻る芸術家や(遠近法の廃棄)、遠近法の多重性を強調する芸術家が見いだされるのである。(その発展の異なった段階において同じ芸術家が双方の傾向を体現することもしばしばである。)



 ある意味において、不調和は宇宙の法則である。神秘家の宇宙ではなく、日常的な実在の多重の宇宙である。我々の定義を極端にまで突き詰めれば、テーブルは椅子とは不調和だと言うことができよう。しかしながら、我々の用語はそれほど厳密ではない関係を示している。我々の語る不調和は道徳的、或は美的なものである。例えば、テーブルと椅子とは我々の経験では調和のとれた共存をなしている。それゆえ、道徳的美的な意味で不調和を得るには、芸術家はこの組み合わせの外に出なければならないだろう。例えば、椅子が逆さまにされることもあり得る。或は、テーブルと二つの椅子があり、一つの椅子にはグロースの描くような太った貪欲そうな男が座り、それに向かい合って、ディスプレイにでもあるような長いドレスを着飾ったマネキンがあることも想像できる。テーブルと椅子と夕食は、経験にもある通り、調和している。しかし、テーブルと椅子と人間とマネキンとの夕食は不調和である。結果的に現われるのは、解釈の要素を伴った遠近法である。結局、その絵は、計画的な不調和によって、グロースの典型である貪欲な男は、まやかしの女性と食事を楽しむときにも常と変わらないと言おうとしているのかもしれない。



 要するに、諸過程の性格を<中立的に>命名するという大まかな理想とは対照的に、「不調和による遠近法」によって、自由に軽重を調節できる<劇的>語彙をつくりだそうというのである。最も単純な例はこうである。「救済策の民主化」のような考えは、「リベラル」の典型においては、単に「普及」と言われる。しかし、そうした用語はあまりに切りつめられている。「即興的な」特徴が弱い。「投資の普及」が「質の劣化を伴った投資の民主化は、決疑論的拡張の広まりによって、堕落化したが、カルヴィンによる規則の変更により再道徳化された」と言うのと比べて行為として及ばないように、「行為」として不足がある。

 

 中立的な観念は、言葉が<登場人物>であり、エッセイは<薄められた劇>であることを忘れさせようとする。エッセイストの言葉は、オセロ、イアーゴ、デズデモナが内的に関係する重みをもっているように、相互関係を組織化するのである。「英雄的な」語と「悪漢の」語とがあり、その間にある語は、磁石の両極のあいだにある鉄くずのように、「階梯づけられた系列」をなすのである。劇におけるイアーゴの働きがオセロと矛盾しているとは言えないように、「プロット全体」に関する限り、強調点が互いを「矛盾させる」ことはあり得ない。

 

 エッセイにおける<観念>の劇的<人格>の要素については、名前(劇の登場人物の名であれ、エッセイにおける概念であれ)が行動の領域や方法を手短かに示すものであることを認識しない限り、明確に理解することはできない。多分、「男性と女性は、彼らを支配する観念の器官や道具としてのみ存在する」と言ったときサミュエル・バトラーは問題を<追いつめて>もいれば、<取り逃がして>もいた(人々と観念との切り離すことのできない関係を認めている限りにおいては追いつめているが、観念論の影響のもと、観念を因果的に先行するものと取っている限りにおいては取り逃がしている)。

 

 こうした考え方に従えば、概念の誤った厳密さを取り除き、道徳的カテゴリーから経済的カテゴリーへ素早く移動する「損失の社会化」といった概念にはいくら称讃してもしすぎることはない。投資における救済策の働きに対応するものとしては、「原罪」による「治癒的な」教説があり、それによって人は、<あらゆる>人間が有罪であると考えることによって、個人的な損失を「社会化する」のである。それは、例えば、スイフトの諷刺の背後にある<ねじれた悲劇>の要素であって、彼はこうした考え方を<自分自身を持ち上げる>ためではなく、<全人類を引きずり落とす>ために用いるのである(著者自身が一般的デフレに巻き込まれている)。「私はあらゆる国家、専門家たち、共同体を憎んできた。私の愛情はすべて個人に向けられている。・・・しかし、原則的に、心からジョン、ピーター、トーマスなどを愛するけれども、人間と呼ばれる動物のことは憎み、嫌っている。」

 

 マルローとホワイトヘッドのような異なった人間のうちにも、人間の孤独を<社会化>しようとする本質的に宗教的な試みが見られるが、ホワイトヘッドがその達成に純粋に観念論的な戦略をとっているのに対し、マルローは、マルクスの喪失の社会化の定式に従い、集団的行動のうちに「弁証法的な」矯正の道を探り、最終的には「私は唯一の犠牲者ではない、私は犠牲者の<階級>に属している」と言うにいたる。スイフトは、本質的に宗教的ではあるが、本質的に悲劇的である。しかし、個人主義を過度に強調することが、悲劇的なスケープゴートを風刺的なスケープゴートに変え、慰めのための仕掛けを告発の仕掛けへと変えるのである。宗教性の欠如は便宜的なものである。しかし、間違った宗教性は災難のもとである。

 

 最近、次のような話を聞くことがある。作家同士の内密な話で、告白の調子が伴っている。語り手はまず、謙遜してこう言う。「私は悪い批評家である。学ぶべきことがたくさんあり過ぎる。五年は一言たりとも書くべきではないだろう。研究と鍛錬に集中するべきだ。要するに、私は悪い批評家なのだ」と。そして、この損失を「社会化」し、こうつけ加えるのである、「実際、我々は<みな>悪い批評家なのだ」と。

 

 我々が自分自身をふり返ればふり返るほど、「損失の社会化」にある「計画的不調和」が物事の本質に我々を近づけるという信念は強まっていく。経済、宗教、美学の用語のあいだの転用可能性を確立し、「様々なものを一緒にする」という我々の目的にとって基本的な定式となるように思われる。しかし、我々にはこの言葉の創始者をいまだ正確に位置づけることはできない。思考の建築物に対する彼の貢献は、中世の大聖堂の礎を築いた無名の石工のようなものに止まっている。