ブラッドリー『仮象と実在』 6

      (しかし、一次性質は独立した存在ではない。)

 

 だが、それらは一次性質の仮象であり、一次性質が実在なのだろうか。議論の積極的な面は、拡がりに事物の本質があるということだった。この結論が真であるかどうか問う必要がある。この教義は、もちろん、唯物論のもので、非常に単純な信条である。拡がりはその空間における関係とともに本質的事実であり、残りはその従属物である。この見方が、ある種の科学の分野で必然とされるという意味において科学的であるかどうかはここでは問わない。それは、もちろん、いまの問題には関係がなく、我々が問うているのはこの教義が真かどうかだけなのである。そして、この点から見ると、唯物論を科学的だと呼ぶ学者は恐らくいないだろう。

 

 一次性質を唯一の実在だとする説に反対する論拠を簡潔に示してみよう。(a)第一に、拡がりの本性において、各項は相互にどのような関係をもつことができるのか、と問える。これは後に扱う問題だが(第四章)、その帰結は唯物論にとって致命的だということだけはここで述べておこう。(b)第二に、一次性質と二次性質――感じや思考もここに位置づけられよう――との関係がまったく理解できないように思える。というのも、実際には、「仮象」と名づけることによって実在から追放されるものはなにもないからである。あらわれているものはそこに存在し、論じられねばならない。だが、唯物論仮象を論じる正当な手段をもっていない。仮象は拡がりに属していなければならないが、属することはできない。また、どこか別の場所に落ち着くこともできない、というのも実在の別の場所など存在しないからである。そしてまた、別の場所などあるべきではない、というのも、もしそうした場があるなら関係は消滅し、仮象は派生的であることを止めるだろうから。だが、他方、それがいかなる意味においてであれ実在に属するならば、どうしてその非実在的性格を実在に感染させないでいようか。あるいは、もし物質が本質的に二次性質によってなりたっているとみなされるなら、物質はそれ自体であることを止めなければならないとも主張できる。別の面から見れば、事物は二つの構成要素のうちの一つだけでも存在するのであり、それでは実在ではない。

 

 そして(c)第三に、二次性質は実在ではないという議論は、同様の説得力で一次性質にも適用される。拡がりは器官との関係においてのみ我々のもとに達する。それが触覚であろうが、視覚であろうが、筋肉感覚であろうが、その他どんなものであれ議論に違いはない。というのも、いずれの場合であれ、事物は身体の作用を通じて我々に知覚され、決してそれ以外はないからである。我々の身体自体も例外ではなく、拡がりとして、ある部分の他の感知される部分への働きかけによってのみ知覚される。我々が身体を空間的な実在としてとらえる超自然的な直観などないことは言うまでもない。だが、もしそうなら、拡がりとはなにものかに知覚されるときに限って拡がりであることになるだろうし、その知覚するなにものかについても事情は同じである。端的に言えば、それ自身をとってみれば拡がりではないなにか別のものとの関係がなければ拡がりは立証されない。さらに、夢や錯覚による反論がここでもある。これらの誤りは、対象と我々の知識とのある必然的な関係を、たとえ誤りがそれと認められていない場所であっても、指し示しているというのがこの反論の主張するところである。そうした関係はあらゆる性質を仮象へと変化させてしまうだろう。実際、我々はここでもまた以前と同様の答弁しかできない。つまり、拡がりそれ自体が実在の事実であり、我々の知覚との関係は様々に変化するのだと答えるしかない。だが、それではお決まりの結論を避けることができない。あるものがある条件下でのみある性質をもつとされるなら、そうした条件のないところでそのものが同一であるという結論を正当化するような議論はないのである。このことは動かせないように思える。さらに、もし我々に他の情報源がなく、問題の性質がある一つの関係以外では我々にとって存在しないなら、その関係を除いてそのものの実在を主張することは怪しからぬことである。平たく言ってしまえば、無意味な企てである。そこで、もし唯物論に忠実であるなら、どうにかして器官との関係を避けた一次性質を手に入れなければならないだろう。だが、後に見るように(第四章)その本質そのものが関係に依存しているために、この抜け道も閉ざされるのである。

 

 (d)だが、空間的性質が唯一の実在だという説には、より明白な反論がある。唯物論に攻撃の手を加えようとする人たちのために私が書くのだとしたら、ここに重点を置くだろう。二次性質なしに拡がりは考えられないし、純粋な拡がりなど心のなかで思い浮かべることは誰にもできない。端的に言って、これはある一面の乱暴な抽象であり、我々の注意を事物の単一の側面に閉じ込めることによって、それが自らつくった虚構であることを忘れ、堅固な実在の影をつかんでいるのである。唯物論へのこの明白な回答についてもう少し述べてみよう。

 

 もちろん、この教義は、拡がりは他のすべての性質と完全に離れていても実在であり得るとしている。だが、延長は決してそのようには与えられない。視覚的に言えば、色がなければならないし、触覚や、「筋肉感覚」という名で呼ばれるような多様なやり方で得られるものでも、決して、皮膚や関節や筋肉、あるいはつけ加えるなら中枢部からくる感覚から自由ではない。人は好きなことを自由に言えるが、拡がりを、同時に「どう」拡がっているかを思うことなしには考えられない。そればかりでなく、「上下」「左右」といった細かい差異も空間的関係には必須のものである。だが、これらの差異は、明らかに、単に空間的ではない。一般的な「どういう」拡がりかということと同様、これらも上述したような種類の感覚からくる様々な二次性質から成り立っているだろう。実際、心理学者のなかには更に先まで進み、二次性質が本来のもので、一次性質が派生的だと主張する者もいる。(彼らの見方では)延長は非延長的なものから構成または展開されるものなのである。私にはそこまで保証することはできないが、議論の余地がない証拠に訴えることはできる。延長は二次性質なしには呈示され得ないし考えることができない。単なる抽象として、なんらかの目的のためには必要だが、実際に存在するものとしては馬鹿げている。だが、唯物論者は、生まれつきなのか、教育の欠陥からか、あるいはその双方によるのか、この無教養な空想の産物をなんの正当性もなしに崇拝している。