ブラッドリー『仮象と実在』 149

[自然の無限性。]

 

 自然が融合する絶対においてを除けば、全自然が統一性をもつと主張する権利がないことを我々は見てきた。それでは、説明を必要とするいくつかの点についていくつかつけ加えよう。たとえば、我々は自然は有限か無限か問われるかもしれない。まず最初にこの点について我々の観念を明確なものとするよう努めてみよう。もちろん、よく知られているように、どちらの側に立っても大きな難点がある。もし自然が無限なら、存在する何かがあり、いまだ存在しないものがあるという不条理に落ちこむ。というのも、現実の存在がすべて有限であることは明らかだからである。しかし、他方において、自然が有限ならば、自然は終端をもたねばならない。これもまた不可能である。というのも拡がりの限界線は、それを越えた拡がりと相関的でなければならないからである。そして、空虚な空間へと後退することはまったく我々の助けとはならない。というのもそれは(それ自体不条理であるが)ジレンマを一層悪化させて繰り返すことになるからである。それは何からの存在であるとともに無でもあり、本質において限定されているが、他方において、終端がない。

 

 しかし、我々は自然は無限であるという結論から逃れることはできない。それは我々の物理体系だけにおいて真なのではなく、存在しうるいかなる拡がりのある世界においても真であろう。終端以外のものによって何物も制限されることはないが、それは常に乗りこえられていく。それは現にある存在に関してのみではなく、それらの諸世界の過去や未来においても、空間に確たる境界は存在しない。さらにまた、これは拡がりに特有な性格なのでもない。諸性質と諸関係が不完全に連接するいかなる有限な全体も、結果としてその限度を無限に越えでていくような過程が必要とされる。そして、なによりも拡がりにおいては、この自己超越は明白である。あらゆる物理世界は、本質的かつ必然的に無限である。

 

 しかし、そう言っても、いかなる瞬間においても、そうした諸世界が与えられた存在以上のものをもっていると言いたいのではない。振り返すが、そうした主張はなんの意味ももたないだろう。またもや存在でもあり無でもあるもの、存在しない存在を見いだそうと努力することになろう。かくして、我々はあらゆる自然は有限でなければならないと主張せざるを得なくなる。ジレンマが我々の顔をのぞき込み、あらゆる自然はそのものとしては非実在的な現象であるという事実に連れ戻される。これは実在の単なる部分が自らをあらわすあり方であり、より十全な総体によって取り入れられ、変質させられるときには本質的で真であるが、それ自体で考えたときには不整合であり、自らの存在を越えたところでは間違いとなる。相対的なものの本質は、終端をもち、終端にいたるが、同時に、常に自己矛盾で終わる。また、自然の無限性は、あらゆる限界を超えたその拡がりは、自然が自然として自らを終えようとする努力と言えるかもしれない。そのなかで自らの同一性、不安定さ、移ろいやすさ、超越してゆく恒常的な過程をあらわす。現象だけを取りだしてみると、自然は有限であると同時に無限であり、自らの非真理を宣言する。そして、この矛盾が解決されたとき、どちらの性格も両者を超えた何かのなかに消え去る。おそらく、これ以上自然の無限性にとどまる必要はないだろう。