ブラッドリー『仮象と実在』 212

[宗教と哲学。]

 

  この章を危険な間違いに対して警告を発することで終わりたいと思う。我々がみてきたことは、宗教はあらわれであり、究極的なものとはなりえないということだった。このことが結論づけられれば、宗教の完成は哲学であり、形而上学において、その成就が目標に達することになる。宗教が本質的に知識であるならば、この結論は保持される。宗教が知識を含む限り、我々もまたそれを受けいれざる得ない。形而上学の仕事は究極駅な真理を扱うことであり、この点において、明らかに、宗教よりも高い位置を占めていなければならない。しかし、他方において、宗教の本質は知識ではない。そしてこのことは、その本質が感じにあることを意味していないのは確かである。宗教は我々の存在のあらゆる側面を通じて、善の完全な実在を表現しようとすることにある。それが進む限りにおいて、哲学以上のなにかであり、より高次にある。

 

 哲学は、次の章でみるように、あらわれ以外の何ものでもない。それはいくつものあらわれの中のひとつであり、ある点において高次になると、別の面では低次になる。その弱さは、もちろん、あからさまに理論的だということにある。哲学はより疑いの余地なくできあがるし、付随的にはそれ以上である。しかしその本質は知的活動に制限されねばならない。それゆえそれは絶対の一面的で不整合なあらわれである。哲学が宗教である限り、宗教として通ることを許し、そこにとどまるなら、それはもはや哲学ではない。宗教的な信念に不満足なものが、形而上学に身を転じ、そこで探していたものを見いだしはしないことを示唆しているのではない。しかし、それを持ちこまない限り、どこにも見いだすことはないだろう。形而上学は真の宗教と特別な関係にはなく、どちらのあらわれも他方の完璧性に寄与することはありえない。どちらの感性も絶対以外では見いだすことはできない。