ケネス・バーク『宗教の修辞学』 22
XI.記憶とはなにか
自伝が終わり、異なった種類の用語の発展が取って代わる。それまでの四巻の展開についての簡単な要約。様々な記憶についての叙述から記憶の諸原理へと転換することは、「ロゴロジー的」には、「時間」から「永遠」への転換に等しい。知識の問題について考察される。告白が誰に向けられているか・・・アウグスティヌスの記憶の観念で連想されるイメージ。記憶の技術的な操作。いかに記憶は撞着語法を思わせるか。記憶は感覚印象だけではない。離れた領域から来るに違いない認識の種類。数学的知識はそれに属しているだろう。再帰的段階(想起によって想起する)。アウグスティヌスは聖書を記憶する効果については言及しない。「神」が彼の記憶においてもつ意味、というのも、「神」はあからさまであれ暗黙のうちにであれ、聖書のあらゆる言葉に含まれているからである。同語反復、あるいは不合理な推論による「超越」。二つの異なった語を同じイメージに当てはめることが、いかにして結果的に、両方の意味をもつ語をつくりあげることになるか(最高度の語は多くの語の融合と感じられることになる)。アウグスティヌスはいずれ記憶を「超越する」だろう。
アウグスティヌスがそうした理由がどこにあるにしろ、息子の死を母の死の前に置いたことは(母親の方が先に死んだのに)、彼の自叙伝を彼女の死で終えるという形式的効果をもっている。
第九巻は、時間的な段階の意味も含む、私的な叙述を繰り広げることで終わっている。そして残りの四巻は(最初の九巻と量的にはほぼ同じ)発展の顕著な相違を具体化している。記憶について九巻をあてているが、アウグスティヌスはいまや記憶が何であるかと問うことをやめている。そして、この語を詳細に描くことがこの語の周辺に集まる他の語との関わりを探ることになっていき、この本の方法そのものがここである種の回心を成し遂げていると言える。「司教」としての役割が先に立ち————「告白」はますます「職業的な」ものとなっていく。
一般的には、展開の新たなスタイルは次のように進む。記憶の本性について考察することが、思いだす過程においてイメージの演ずる役割を考えることに移る。そして、イメージという主題はすぐに、感覚と誘惑の性質を考えることに進む。次に、絶え間なく続く誘惑についての良心の咎めが購い主の働き、二つの領域、人間と神、時間的なものと永遠を仲介する役割をもつ購い主へと考えを導く。しかし、時間的なものと永遠との関係を考えることは、「始まり」という問題について考察することになり————アウグスティヌスは創世記の冒頭にある創造について熟考をこらす。一なるものへと引き絞っていくこと(究極的な始まりを尋ねることで)が多数性へと導かれることにもなる(創造者という統一のもと、「豊かな」創造物が融合している)————結果的に、プラトン主義者の弁証法でもこれらの段階が強調され、広がりによって収斂されていくところも合致している。
正直なところ、我々の要約は、これまでの四章を実際より明確な進展のあるものとしてしまっている。あらゆる用語が互いに含み合っているのであれば、最後の一歩は部分的には最初の一歩にさえ含まれていることになる。しかし、こうした様々な話題を継起的にあらわすことは、一般的に、発展のパターンに従うことになる。とりわけ、最初の九巻と最後の四巻の対照が明らかであり、我々の「創世記の最初の三章」についての次のエッセイの基礎となる「直線的な」用語と「円環的な」用語の区別が明らかに含まれているからである。記憶の叙述から記憶の原理への展開は、それ自体、「時間」から「永遠」への展開と厳密にあるいは「ロゴロジー的に」等価である。
「音楽的には」、この転回は知ることの観念を強調することで第十巻の始まりを知らせている。「あなたのことを私に知らせてください、すべてを知る者よ、私が知られているように、あなたのことを知らせてください。」(Cognoscam te,cognitor meus,cognoscam,sicut et cognitus sum)こうした冒頭の四度にわたる繰り返しは、「神と関わりをもつ知識の人々」とでも名づけられるような効果をもっている。しかしながら、幼児期の「本能」についての議論が、同じ動詞に共通の根をもっていたことを思い返そう。彼が「知る」すべては吸うこと、休むこと、泣き叫ぶことだと言われていた。
おそらく、動機の変化を反映するものとして、彼の告白は誰に向けられているのか、という問題が明らかな関心事となっていることにも留意するのがいい。彼の答えは、二つの観客に向けて、というものである。彼は心の内では神に告白しているが、書いているのは立会人の前でである(第十巻第一章)。神の現前のうちにある人間に向けて告白している(第十巻第三章)。神の前で、彼が「助けるよう命じられている」ものの前で告白している(第十巻第四章)。第十一巻第一章では、読者を助け、神を愛させるために告白すると決意する。
第六章では、conscientia(この語は、フランス語のconscienceのように、「意識」と「良心」の両方を意味している)(1)への言及のあとに、我々が知識を感覚から、理性による判断によって正しながら得ている方法を考察することで、言葉の探求がなされている。物事に接したとき、記憶に蓄えられる感覚の役割を示す動詞はattigeritで、この動詞は母親が死ぬ前にされた議論に関連して比喩的に用いられていた。第七章の終わり、第八章の始めで、彼は公式に自分の自然な力を体系的に超越する(transibo)ことを目指したい(「段階を上ることによって」gradibus acendens)と告げている————そのすぐあとで、彼は記憶の問題、「広々とした広大な屋敷」(campos et lata praetorian)に突入する。
記憶には、感覚によって伝えられた「無数のイメージの財宝」がある。「財宝」と同じ語は、第九巻第七章にもあらわれ、二人の殉教者の身体が、「神の秘密の宝物庫」に隠され忘れ去られたと語られ、埋葬についての連想が、数行後に、忘れ去られることはいまだ吸収され埋められている(sepelivit)ことではないという言葉を裏づけている。
予想されるように、記憶の「内側に向かう」性質については全体にわたって述べられている。記憶は「場所とは言えない内的な場所」で、そのなかでは物事が様々な深さで蓄えられる。ここにはpenetralia,intusなどの語があり、離れたや隠されたの様々な同義語がある。記憶には「大いなる奥底」があり、そこに各感覚がそれぞれの特殊な感覚したものを注ぎ込む。それは「無数の平野、洞窟、窪み」をもっている。記憶には「数多くの言いあらわすことのできない秘密の襞」がある。ここで、第九巻の第一章で、神が「あらゆる秘密よりも内側にあるもの」(omni secreto interior)と呼ばれていたことを思い起こすことができる。あるいは、第五章、第六章には、神の摂理の「秘密」についての言及がある。記憶が「広大なsinus」と呼ばれるときに再び「襞」という語はあらわれるが、それは聖書が「アブラハムの胸」(第九巻第三章で合うアウグスティヌスによって引用されている)に応じて使った語で、第五巻第二章では、神の胸で泣く(文字通りには、神の胸の「なかで」)ことが言及されている。第十一巻第三十一章では、神の「深い秘密」のsinusが言われており、それは彼が行き過ぎの結果たどり着いた場所からは遥か遠くにある。ラテン語の辞書では、この語の意味の広がりは次のようになる。曲がり道、襞、窪み、輪、胸、折り重ねる、財布、金、湾、入り海、鉢、谷。比喩的には、愛、愛情、守護、親密さ、内奥の部分、心、隠し場所。記憶は意味の範囲において「広大なaula」とも似ている。庭、前庭、中庭、囲い、広間、宮殿、王宮、住居、田舎、王子の力、王位。
記憶の観念と関連してもっと数多くの広い範囲にわたる意味合いが伝えられている。彼が望むだけ思い起こせば、それは「無数」のものとなった。それらは感覚によって「注ぎ込まれ積み上げられた」ものだった。未来について考えるとき、彼は数多くの(copia)過去の経験を引きだす。記憶は偉大な力(vis)である。それは雄大で制限がない。そこで彼は自然の広大さを見ることができる。それは「巨大な力」をもっている。それは「深淵で無限の多様性」である。それはまた漠とした恐れを感じさせる(nescio quid horrendum)。あるいはまた、思い起こされるものとは呼びかけに応じて群がり集まる群衆のようなものであり、求めたより多くが集まってしまうので、その幾分かは振り払われる。
彼は二度、記憶のなかのものを胃のなかの食物に例えている、記憶には実際に味わうという経験を経てはないけれども(第十巻第九章、第十四章)。
記憶の観念にまつわる形象については十分だろう。その細かな働きについては、求めれば事物が現前するが、次があらわれると最初にあらわれたものは消えてしまうことを強調している。事物は、それが記録される際の特殊な感覚印象に従って、個物と一般的なもの(distincte generatimque)とに分類される。記憶によって暗闇のなかでも色を見ることができ、沈黙のなかでも歌を聴くことができる(ところで、記憶に関するごく普通の実験がこうしたなかば神秘主義的な、撞着語法をもたらしうることを留意しておこう)。識別をする記憶の役割としては、なんのにおいもかいでいない状態で、百合とスミレの香りを区別し、純粋に記憶のなかだけで好みを語ることもできる。記憶のなかで、自分自身に直面し、自分を反省し、過去に基づいて未来の計画や希望を形成し、次に何が来るかを推測し、「神の許し」を祈るのである。そして、要約すると、記憶は彼自身の心の力であり、彼自身の本性に属するものだが、彼の理解を超えている。
ここまでは、感覚印象の記憶に重点が置かれていた。しかし、単なる「イメージ」としてではなく、事物そのもの(res ipsas)として得るような記憶がある。興味深いことに、彼はここで、彼が自由な教育(doctrinis liberalibus)を受けていた頃に学んだことに言い及んでいる。特に彼があげているのが早くに異教で習得した議論の仕方であり、それを忘れていないと正直に言っている(なかでもマニ教、ペラギウス派、ドナティウス派については多くの証言があろう)。そこにも、それはものであるのか、何であるか、どんな種類か(an sit ,quid sit,quale sit)といった疑問に答える知識があったかもしれない(第十巻第十章)。こうした問題についての正しい答えを得るのは、記憶からではあり得ない、と彼は言う、より離れた、遥か遠くの洞窟のなか(in cavis abditioribus)にあるのなら別であるが。思うに、アウグスティヌスはここで、プラトン主義者の想起説に触れているのではなかろうか。数学的知識もまたこうした種類のもので、感覚を通じて得られるものではなかった(第十巻第十三章)。
いかに記憶そのものを思いだすことができるのか、どのように間違って聞いたことを真に思いだすのか、忘却を「記憶の欠如」をどのように思いだすのかといった考えに頭を悩ませながら、思いだしたことを思いだすという考えと共に、彼は反省的な段階に入る準備がいまやできている。記憶なしには、自分の名前を名乗ることさえできない。
後に、第十一巻第二章で、彼は「私が聖書に何を見いだそうとあなたを信じさせてください、称讃の声を聞かせ、あなたを飲み干させてください」(et te bibam)ということになろう。だが、驚くべきことに、記憶のなかの神の痕跡を探りながらも、彼は自分のなかに蓄えられ、常にその叫びの源となっていて、最後の巻では殆どそのページを覆い尽くすことになる聖書の引用句からなる源泉については言及していない。明らかに、純粋に用語論的な観点から見るなら、「神」は陰に陽にその文章のすべてにあるのだから、記憶にあるものである。人は自ら蓄えたものでなければその語彙から引きだすことはできない————聖書は最初の文に「神」を置くことでこの問題を「解決」している。それゆえ、この事例における弁証法に関する限り、記憶を通じて神に至ろうとする彼の試みは、回心以来、彼が記憶に関して組み立てていた用語法の性質によってあらかじめ解決されている。こうした方向性を補強するのが「記憶」に正確に等価なものとして言語の形式が置かれていることだろう(諸称号の称号、「神-語」において頂点を迎える内的一貫性の論理)。
ロゴロジー的には、ある用語法がそれ自身を「超越」するには二つの道しかない。同語反復によるか、不合理な推論によるかである。不合理な推論が企まれるなら、それはその仕事が不整合であることを意味する。しかし、もしそれが不整合であるなら、超越的な働きをなす言葉が、あからさまであるか暗黙のうちにか、冒頭から存在せねばならない。通常それは暗黙のうちにあり、次第にその不明瞭さを取り除いていく。しかし、神学的な用語法では、ある種の巧みな開示はあるにしても、最初から明示されている。
また、アウグスティヌスが記憶と結びつけている形象を考えたときに見たように、ある拡散の過程が存在し(ある種の反芻であり、熟考でもある)、超越的な言葉に当てはめられたイメージが、ここでは、額面通りにはずっと少ない主張しかしていない言葉に適用できる————つまり、完全な超越となる言葉への移行を助けるような両義的なイメージの橋が存在する。しかし、幾つかの語が整合性をもって関わっている限りにおいて、当然それらは互いを含みあっている————それゆえ、最終的な分析においては、「最上位の」語の特質が何らかの形で多くの語に染みわたることになろう。
いずれにしろ、アウグスティヌスは、記憶という語を捨て、実質上それを越えた別の語を取ることになろう。そして、第十七章では、熱狂的な文章で、彼が到達できる(attingi)あらゆる場所から神へ達したい(attingere)と望み、しがみつける(inhaereri)あらゆる場所で神にしがみつく(inhaerere)ことで記憶を超越するだろう(transibo)、と述べるのである。
*1:(1)この一節では、間違いなく、「意識」と翻訳されるべきで、五章、六章の終わり近くでは明らかに、「良心」と訳されるべきである。domine dues meus,arbiter conscientiae meae.