ブラッドリー『仮象と実在』 214

[経験の主要な様態;それらはすべて相対的である]

 

 しかし、他方において、絶対においてはどんなあらわれも失われ得ない。それぞれが寄与し、全体の統一に本質的である。それゆえ、(第二十五章において)我々は一側面はそれ自体を見たとき最終的には他のものが存在するためにあることを見た。どの一側面、一要素が欠けても、絶対は価値があるものとは言えない。かくして、あるものがあなたにとって価値のある要素であっても、他人にがいうほど助けにはならないものもある。確かにあなたの姿勢と立場は一面的で不安定である。他の要素は最初は内的なものであり、姿勢を導くものだったが、暫定的で、最後には真ではなくなることもある。しかしながら、我々がそこで主張しなければならない真理を示す助けとなるかもしれない。絶対性のなかに偶然性そのままや単なる装飾は存在しない。あらゆる要素はいかに従属的なものであろうと、その性格は取り上げられ融合されて相対的な全体のなかに保持される。宇宙の主要な側面は何ものもその残余に解体されない。それゆえ、この土壌から、多よりもより高次な位階、あるいはよりよい要素はこれら主要な側面について言うことはできない。それらは独立したものではなく、それ自体や自らの欠陥を補完し完成させる、それらを完成させる最終的な全体にまで規則を超えることはない。しかし、それらの要素は、互いに等しくもなく従属してもいないが、絶対との関係においては同様に本質的で必然的である。

 

 いまの章で、経験の全体としての絶対という観念に戻りついたので、この観点から主要な側面を簡潔に概観しよう。経験において可能な姿勢については、至高のものがなにもないことを示そうと思う。他のものがその形容であり、それで解決されるような様態は存在しない。そうした多様な様態が単一の統一に集るということは理解不能である。統一の肯定的な性質について最終的な議論を行なうのは次の章になろうが、ここではもうひとつの側面を強調しよう。絶対は現前し、ある意味においてそれぞれが特殊なあらわれをもっている。あらゆるところに、あらゆる価値と程度をもって現前している。自然に関するいくつかの問題をあきらかにしようと思うが、進行ということの意味、個人的な死後の生の連続の可能性を簡単に追求してこの章を終えようと思う。