トマス・ド・クインシー『スタイル』3
英国人が、他の点では楽しみ、評価するスタイルの長所を無効にする二つの力を示してみよう。アテネとローマの市民をレトリックの力と言葉の魔術にかくも敏感にさせたのはなんだったのか。それはレトリックと言葉の魔術が毎日使われ、市民自身に関心のあることが、喜んで聞けるように十分にわかりやすい言葉で語られるのを聞いていたからである。現代国家のなかでは英国が同じような長所をもっていて、聴衆にそれほどひどい集中力を強いることはない。古代の共和国では世代による広がりを除けば、常に同じ都市に同じ聴衆がいた。英国では別な具合である。十八世紀から現在までというものは、ある巡回裁判区や選挙区で起こった大事件が新聞の報告によって国中に広がる。だが、こうしたことや、民主主義を広げるのにスタイルのもつ力が大きかったという例証があるにもかかわらず、そのことが英国において、構成術が著述に本質的なものとして十分<現実に>重視されることに役立つことはなかった。その理由は、第一に、スタイルと内容は織り合わされていること、<両者に関係はあっても、一方が他方に影響を与えるのは不可能だと思われており>、より低級なものをより優れたものに負担させるのは自然なことだと思われている。第二には、<雄弁に適切なスタイルは書かれるものとは本質的に異なっており>、演壇や議会での経験は、書物に適した簡潔で洗練されたスタイルを正当に評価する精神をむしろ損なうほどのものである。かくして、英国のある面での長所は別の部分にある二つの原因によって中和されてしまう。
一般的に言えば、結局、確かに我々英国人がスタイルを無視し、正当な評価を下さないことは、嘆かわしい欠点ではあるが、本来英国人の性格の雄々しさからきている。英国の好みが誠実と率直にあることから、「<外観よりも実質を>」という原則が、我々の作法、生活哲学の鍵であることから、そして、最後に、この実際的、具体的なものへの愛着がベーコンからニュートンに至るより高度な思索までをも支配していることからきている。しかし、この誤った習慣の始まりがなんであるにしろ、どれだけ込み入った原因が考えられるにしろ、構成術に対する無視や軽視の習慣は痛ましいまでに広がっており、熟練した眼で見れば、出版されている殆んどあらゆる本のあらゆるページに認められる。
スタイルの多様な性質と美点をどこかで確かめたいと思うなら、職業的作家のなかに探そうとするのが理に適ったことであろう。だが、全体として言えば、この点において彼らほど全く無頓着な者たちはいない。語や成句の選択にしろ、文の構成にしろ、かくも不快なまで極端に怠惰で頓着のない原則など考えることができない。あらゆるページに見ることのできる証拠とは、ぎこちなさ、野暮ったさ、リズム感のない節回しといった欠点は、作家が節をつくり直し、句を挿入し、不必要な語を削らねばという問題をどれだけちゃんと判断できるかによって変わってくる。我々の経験では、この繊細な芸術において見事なほどに細心で、一つの章を十七回以上書き直した作家を知っている。彼が心に描く理想や範型に達するのはかくも困難で、その理想に達するための労力たるや疲れを知らないものだった。他方、この国の文学を牽引する前世代からの作家の大部分は、各節や文章について自ら期待する型に満足するどころか、そうした型をつくろうともしないのがここずっと続く現状である。時の盲目な偶然のもとに出会った言葉がなんであれ、それはどこかで憶えていた言葉であり、偶然による一瞬の印象でも、それは自らがそう認めた結果としてあるものではある。しかし、スタイルの主な要素についてかくも決定的に無関心な者が、合い隔たった場所同士の比率を見積もり、構成についての繊細なバランスを量るために時を費やすと思うのは幻想だろう。良い文章に見られるつなげ方、移行の仕方、論理の多用な働きについては、二人の偉大な修辞家によってローマの異なる時代において、そしてその後長い間コンスタンチノープルにおいて真であるとされたことが英国でも認められるようになった。我々の言葉、母国語の言葉づかいは女性と子供の間にだけ残っている。だが天も知る如く本を書く女性ではなく——彼女たちはしばしば著述の価値を傷つけるほどひどい——教養はあるが文学に職業的に関わることのない女性である。キケロとクインティリアヌスは、それぞれの時代において同じような卓越性をローマの貴婦人たちに認めていた。また、東ローマ帝国の少なからぬ作家が記録しているところによると、ビザンティウムの子供部屋は純粋な古代ギリシャ語の見いだされる最後の場所だった。確かに、この高貴な大都市の無数の人々のなかにも見いだされたろうが、そこには腐敗と俗悪化があった。どこに潜んでいたにしても、それは貴族や将校や延臣のなかにではなく、例えばNicetas Chniatesのようなてらいの勝った者ですらそれを認めることができなかった。だが、このことの合理的説明は簡単である。その地方の一般的良識から生じ、その土地の真理に忠実な地方名はなぜ威厳があって素朴なのだろうか。それらが能動的な発明によるのではなく、心が本当に受けた印象から受動的に供託されたものだからに過ぎない。他方、名前をつくりだしてやろうとする野心のあるようなところでは、なにか奇怪な馬鹿げたものになってしまう。そんな場合、女性は男性よりも感情を損なう。というのも感傷やロマンスがその名には分ち難く結びついているからである。船乗りは正反対の精神から誤りを犯す。彼らのつける名前に気取りはないが、労苦の後生れ故郷に引き寄せられる気持ちからおかしなほのめかしをしたり——「大かつら島」や「司教とその書記」——本当にあったことの記念として名がつけられるのだが、<別れの崎>や<引き返し岬>といったあまりに気紛れで個人的な名が記録に残ってしまうのである。この欠点はヤンキーの名(注1)の多くと、北アメリカの南部と西部でより多く見られるが、その初期の移住者は宗教心に薄く、入植地の名前の殆んどにそれはあらわれている。これらの人々は偽善的な洗練とは全く正反対の状況で生活している。きめの粗さ、危険や障害が基調にあり、野生の自然が彼らの思考の背景にあって、その名前に反映している。<憂鬱沼>は未開拓の自然をあらわしており、文明の発展と共に消え去るべきものである。<巨大骨の塩なめ場>はそうそう繰り返すことのできない残酷な話を物語っている。バッファローは、牛のように塩から薬効を得ている。彼らは群れで千マイルもの道を岩塩をなめにやってくる。これを見た新たな移住者たちは待ち伏せて彼らを驚かした。三万五千頭の高貴な動物たちがその皮のために一瞬にして惨殺された。次の年、いつものように群れがあらわれたが、先頭が汚れた空気を嗅ぎ、向きを変えて吼えると、生れた森へと「退却していった」のだった。かくて、大きな骨が無情な虐殺を証拠立てるものとして残った。ここでも、他の場合と同じように真実が表現されてはいるが、またもやあまりに偶然で特殊なことなのである。その他にも、上品さに対する軽侮や芸術性の欠如から、名前は粗雑につくられ、船乗りの命名に似ている。