ブラッドリー『論理学』56

第三章 否定判断

 

 §1.前章の長い議論の後なので、我々になじみのある一般的性格をもつ判断のなかで手早く扱うことのできるものを取り上げよう。他の様々な判断と同様に、否定判断は知覚にあらわれる実在に依存している。結局、それはある観念内容を受け入れることを主語であるものが拒絶することにある。ある仕方で性質づけられ決定された実在というのが提案され、その提案を実際の実在に適用することを拒むのが否定判断固有の本質である。

 

 §2.後に見るように、否定を肯定に還元したり派生物としてみることはできないが、両者を同格と考えることは多分間違っているだろう。それは、以下に見るように(§7)単に否定が肯定を前提としているということではない。それは反省の異なったレベルにあるのである。肯定判断では我々は概念内容を直接に実在に帰することができる。ある観念、あるいは諸観念の総合をもち、それを現前にあらわれる事実の性質として示すというのが我々のしたいことだった。しかし、否定判断では、実在への概念内容の差し向けそのものが観念でなければならない。Xという事実とa-bという観念が与えらえたとき、すぐにa-bをXに帰することができる。しかし、単にXとa-bをもっている限り、Xについてa-bを否定することはできない。否定するためには、関係の肯定があらかじめ示唆されていなければならないからである。a-bによって性質づけられたXの観念をx(a-b)と書くことができるが、それはXがはね返す観念内容であり、我々が否定判断で否定するものである。

 

 肯定判断では真の主語は常に観念化されているのは間違いない。我々は現前にあらわれる全体から選択し、言及していない要素を意味する(第三巻I第六章§12)。ある木を指し「緑」と言うとき、その主語は同じ対象が「黄色」だという提案を退けるときと同じ程度に観念的だと主張されるかもしれない。しかし、それは重要な相違を無視している。実在の現前する統一のなかにある木は、同時にある性質を示唆するものとして受けとられる。私は常に決定を中断され、全体を観念として考え、まず最初にこの木は緑であるか、と尋ねた後でその木が緑の木だと決定するわけではない。しかし、「黄色」が否定される否定判断では、木と「黄色」との肯定的な関係がその関係の排除に先行していなければならない。判断は決して問題を先取りすることはできない。私は常にそうした反省の段階にいなければならず、時に肯定判断を否定することもある。