トマス・ド・クインシー『スタイル』31
最初の二つの動因が変化を促すことによって知性を刺激する次第は十分に明らかである。もっとも、奴隷制度のため、商売に対する偏狭な蔑視のため異教ギリシャやローマがどれだけ怠惰にむしばまれていたから気づく者はほとんどいないだろう。だがこの点は棚上げにして、またペリクレスの時代の書物の希少性の度合いについても棚上げにして、それぞれの時代において形成された公的関心、一方ではギリシャ人に、他方では学者たちにある種革命的力を与えたものについて一言触れねばならない。ギリシャ人について、特にアテネ市民について言えば、これはペルシャ戦争で始めて力強く組織化された国民感情に基づいている。戦争以前には、この感情は曖昧にくすぶっていた。だが、東洋の侵攻によってそれはほとばしる炎となった。散り散りであった部族がヘラのもと、つまり恐るべき侵略者に対抗するという共通の関心事のために混じり合い結びつくこととなった原因がまた、彼らの多くが個人的な競合関係やその特殊な行政によって地方的な勢力として分かれていた原因とまさに同じであることは興味深い。傲慢なスパルタ市民は、フランス人風の自己賛美にとりつかれて、テルモピュライのことを常に自慢していた。十年以前、その後のサラミスその他でのことは言わないにしろ、より立派なアテネ市民のマラトンでの振る舞いがアッティカをギリシャの頂点に押し上げたのだった。自己中心的な嫉妬心がそれを認めないことはあるにしろ、そう感じられていたのは疑いない。このアテネ市民の傑出が知的傑出を伴っていた。このことについてはなにも言う必要はないだろう。だが、にもかかわらず、この傑出は圧倒的でいかなる時も無視できないものではあるが、アテネについてはいつの時代にもある不公正があり、彼らの輝きは認められるが、彼らの周囲を取り巻く暗闇と対照的なその光について正当な評価は与えられていないのである。常に用心深いパテルクスもこの悪弊を免れていない。彼は言う、「我々が<ギリシャの>雄弁、<ギリシャの>詩について語るとき、我々が意味しているのは<アテナイの>ということである。テーベの弁論家、ラケダイモンの芸術家、コリントの詩人など聞いたことのある者がいようか」(注1)と。アテネの最初の大作家であるアイスキュロス(ヘロドトスはアテネ市民ではない)は個人としてペルシャ戦争で戦った。つまり、アテネの二つの栄光はほとんど同時に発せられたのである。我々がここで強調したいのは、この統一化を促す大きな出来事、つまり、アジアの二度にわたるギリシャへの軍事的侵攻により、またそれを通じて、ギリシャが始めて一般的にまた相互に自らを知ることになったということである。劇になぞらえて言えば、ギリシャはその時始めて、その才能、仕事、義務に見合った役を<配役>された。それぞれの政治的集団が互いに対立する代わりに普遍的な意識が広がっていった。知的な市民は自らの部族特有の栄光によって鼓舞されていたが、それは文明の擁護者としての栄誉へと移っていった。
これがアテネに働いた<積極的な>力である。さて、平行関係を完成させるために僧侶的な学者に戻れば、<彼らに>働きかけた力はなんだったのだろうか。余暇と本の不足はスコラ哲学の時代にもペリクレスの時代にも共通にあったことである。これらは<消極的な>力であり、一度始まった運動を他のものとともに支えることはあるにしても運動を起こす力は与えることができない。ペルシャに対してギリシャ人に急激に高まった意識、広がりゆく野蛮という突然の危機のもと高まった市民意識がもたらした統一感、共通の目的を有する感覚をスコラ哲学の僧侶にもたらした現実的な、<積極的な>力とはなんだったのだろうか。三世紀を通じて活躍した学者たちに、ペリクレスが子供の頃(注1)ギリシャが旗のように突如として広げた文明の守護者といった大きな統一と努力の原理、明白な関心事がなにか存在するのだろうか。
*1:(注1)アリストテレスはマケドニアのスタギラで生まれた半分外国人ではないかと言われるかもしれない。だが、アテネからの移民で、父親はアテネの人だった。母親はトラキアの人だと思われる。人種の交雑はほとんど常に知的輝き、あるいは少なくとも知的エネルギーを生み出すことになる。キリスト教国における偉人、あるいは活力ある人を注意深く調べるなら、そのどれほど多くが外国人同士の結婚による子供、つまり、もともとの人種は同じであるかもしれないが、国の異なる者同士の結婚から生まれているかに驚くことだろう。
*2:
(注1)できるだけ多くのことを同じ中心に結びつけておくことで事柄を大きく一つのものとしてみることができる。ペリクレスは紀元前四二九年に死んだ。その年齢を四十六歳だとすると、紀元前四八五年に彼は生まれたことになる。つまり、ダリウスのもと始めてペルシャが侵攻した年の五年後であり、クセルクセスのもと第二の侵攻があった年の二年前である。