トマス・ド・クインシー『スタイル』41

 こうした追求は近いところでは、はかなさはあったが、デモステネスによってなされたが、偏見のない性質のものである。そして、彼はそれをその死において、生涯において、ミルトンの言葉を用いれば「不快な真理」を幾度となく発言することで示し、その高貴な勇気によって大衆に聞かせたのである。だが、一人の人間では国家的不名誉を回復することはできない。まさにそうで<あった>し、そう感じられた。それ故、高潔な、穏やかな性質の人間は聴衆に嘘を伝えること、競争者と争うことに不快を感じた。これが劇詩が追求したこととは別のことである。これらの追求におけるアテネの精力的な精神がいかに強いものであったかは言う必要がないだろう。一方は脱俗的で理想主義的、他方は粗野なまでに野心的である。それ故、これらは<ある意味>アテネにおける二つの職業で、同時に<我々が>いう職業よりはより限られたものなのだが、それらはどの階級にあっても真理を公表する唯一の手段であり、我々の出版よりもより確実で広範囲に渡り、直接的な公表手段なのである。

 

 アテネの劇場は、二十歳から六十歳までの男性市民が定まった住所のある数千の外国人とともに集うことのできる場所で、結果的には一日で三万部の出版をしているに等しく、あらゆる可能な補助的美術や音楽と結びついた声と行動の力によってその意味と詩的な力を最も十全な形で理解することができ、十分すぎるほどの視覚的聴覚的共感を胸に抱いて帰宅できるのである。このことは、その美術、劇場の大きさ、<演出>の点で非常に劣ってはいるが、シェイクスピアを正当に評価したチャールズ一世がもたらしたものでもある。

 

 ピューリタンによるおきまりの非難があり、その重苦しい酷評が<機知>によって軽快なものになっているにしても、ミルトンさえも言っていることであるが、王はこの劇詩人を引退直前になって始めて登用したのだった。これで、不満分子である王党派を嘘つきにして狂信家だとするのはかわいそうである。疑いなく、王にあるときも、悲嘆のうちにあるときも、この波乱に満ちた男はシェイクスピアを読んでいた。だが、それは彼が詩人を知るようになった最初ではない。皇太子は公的、社会的仕事のために幼年期以降は殆ど読書の時間などない、つまりその時期であればいつでも偉大な詩人を認めることはできた。チャールズがシェイクスピアを研究したのは皇太子のときだった。彼は、当時の最上の役者たちが演じ、舞台監督に飾られ、イニゴ・ジョーンズの機械装置を備え、シェイクスピアの主要な作品すべてが上演されたホワイトホールに定期的に通っていた。これはアテネ同様の長所をもつ公表形式だった。千部の本は公共図書館に運ばれ、その一部も開かれることがないかもしれない。だがドルリー・レーンが一夜にして公開する三千部の本は、文字通りの意味においても、その精神においても読まれている。つまり、役者によって正確に発音され、生命と強さを備えた声と行動によって理解しやすいものになっている。端的に言えば、各公演において、素晴らしい悲劇の多量の版が最も印象的な公表の仕方で、つまり、単に正確なだけではなく、忘れることを許さず、ぼんやりと見過ごさせることのない現実そっくりのものを提示する。

 

 ドルリー・レーンがシェイクスピアの劇を一夜で三千部公表したとすれば、アテネの劇場はソフォクレスの劇をその十倍公表したことになる。そして、このアテネの公表形式は(現代のように)他の公表方法があるわけではないので、唯一にして顕著なもので、演壇が散文に与えたように、詩的文章にある人為的な恩恵を与えた。そして、公表という恩恵を受けることのない他の表現形式をまったく排除して開拓されてきたこの二つの文章形態は国民的スタイルに不自然な偏向を与え、結果的に効力のある文章の理想をあまりに狭いものとし、最終的には劇詩人と大衆相手の弁論家をアテネにおけるたった二つの知的職業にしてしまった。かくして、実践においてスタイルには大きな制限があった。かくして、第二に、この二つの文章様態に結びついた諸原因によって、教訓的理論としてはスタイルは一般的に無視されたのである。

 

  了