トマス・ド・クインシー『自叙伝』1

第一章 生まれと父の家

 私の父は質素で気取りのない人間で、英国では大金と考えられている(或いは考えられていた)お金、つまり六千ポンドで生活を始めた。私はかつてリヴァプールの若い銀行家が、全く同じ六千ポンドを英国の標準的な生活にとって危険に満ちた遺産の究極の理想だと説き、彼の話を聞いていた者たちの同意を得ていたのを聞いたことがある。彼が言うには、この金額は安楽と真の独立を約束するには少なすぎ、怠惰への誘惑として働くには充分なのである。六千ポンドは、それゆえ、彼が考えているところでは、若者にとっては罠であり、殆んど悪意ある遺贈なのである。他方、弑逆者であり、英国の准男爵の息子で議会の騎兵隊の最高司令官等などであったラドロウは、上品で贅沢な生活のこともよく知っていたが、彼を国家の探偵から守ってくれたある英国人についての意見として記録しているところでは、年に百ポンドの収入があれば堅実で快適な生活を楽しむことができるという。つまり隣人のものについて強欲になることもないし、彼自身が他人の強欲の目標になるほどの豊かさでもないのである。それが1660年のことで、英国での生活費はその当時の一般的な標準からoequatis oequandisさほど隔たってはいない。フランス革命に続く長い戦争の時期にかなり落ち込みはしたが。


 しかしながら、ある人間にとって分別のある中庸であるものが、違った環境にある者には事実上の不正であり、あこがれるようなことなどできはしないみすぼらしさであるかもしれない。二十六歳或いはその位の年に私の父は結婚した。ある点で夫よりも堅苦しい感じの母が協力して父の精神に誘惑を入り込ませないようにしたというのはありそうなことである。人目につかず静かな生活を送っていた父に誘惑が存在したのかどうかはわからないが。英国のように物価の高い国で、この小さな財産では、妻に彼女が今まで送ってきたような生活様式を約束できない。男性はみな、自分が分け与えることができるもので妻がやっていくことを願う。それゆえ、部分的には、父は母のもっともな期待に応えるためにアイルランドと西インドとの貿易商人となった。しかし、妻に対する配慮ということを離れても、英国社会の一般的な感情として公然とした意図をもってなにもしないことはある種外見の悪いことなので、いずれにしろ彼がなんらかの形で活動的な生活に移っただろうことは疑いない。彼が西インドの貿易商人だと言うことで、私は彼の思い出をその当時リヴァプールグラスゴウなどで多大な富を産んでいた奴隷交易との関わりから注意深く放免しなければならない。英国の植民地に限定される奴隷を、或は現代の政治家によってこの悪徳に対してなされた救済策をどう考えようとである。誘拐であり殺人である奴隷交易()については、二つの意見はあり得ない。私の父は、その栄誉ある支局において西インド貿易に関わっていたが、この記憶に値するもののうちでも最も忌まわしいものを無抵抗に認めてさえいなかったのであり、クラークソンの有名なエッセイの最初の出版と下院に証拠が提出されて()以降英国中に広がった良心的な反対者の一人で、自分の家庭では厳格に砂糖を断っていた。

 

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*1: 1.奴隷奴隷交易との混同は、かつては一般的だった。しかし今日、ある特定の方法でその区別を周到にもしようとする者がいるなら、そうした配慮は多くの者にとって不必要なことだと思われるだろう。だが、昨年北方でたまたま尊敬すべき情報通の軍医と会話した際、彼が当然のこととして、奴隷解放等々をその長い改革運動でウィルバーフォースやクラークソン等々が表明し直接の対象としていたものだと思っているのを知った。究極的にはそうした結果を企図していたのでもあろうが、彼らは現にあるものとしてそれを否認する必要があったのだと言っても彼を満足させることはできなかっただろう。
2.サルマシウスのように、本のないところで書いているので、私は四十年間の読書を記憶によって辿っている。引用符を用いて引用している以外はすべてそうしたものだと理解されたい。このことについての私の年代配列はいささか不確かである。クラークソンのエッセイ(もともとはラテン語で書かれた)が出版されたのは1787年だと思う。アンソニー・ベネゼットの本、グランヴィル・シャープの裁判所における奴隷問題についての裁判、それらが始まりであり、それからウィルバーフォース、クラークソンの二番目の作品、議会での証言が続くのだろう。