ケネス・バーク『動機の修辞学』 31
マルクス主義のイデオロギー分析は、文学的美学的な過去の遺物のなかで、ただ「諸観念」だけが生き残るという事実によってある意味誤った方向に導かれ得るのではないだろうか。名誉、忠誠、自由、平等、同胞愛といった包括的な動機づけの言葉は、多くの動機を<縒り合わせたもの>である。<表面的には>複雑な要素が一つの明白で単純な言葉に還元されているが、それを使う人びとは、あからさまに主張はしないが、そこに含まれている多くの意味に気づいている。
かくして、もつれた関係(ある社会構造における物質的特権や欠如についての明快な認識を含む)が<名誉>という神−語で要約され、実際に残っているのがその言葉の「精神性」だけだったとすると、騙されているのは唯物論者だということになろう。というのも、かつてはそのなかに<物質的>条件までも集約していた言葉を、彼は実際より控えめな、より欺瞞に満ちたものとして非難しているかもしれないからである。
『文法』で我々は次のように述べた。もしある部族が川のそばに住んでおり、その全生活をこの川に頼っているとすると、彼らの動機は「川の神」と呼ばれるだろうもののもとに集約されよう。こうした名称は単なるアニミスティックな迷信ではなかろう。大いに現実的で唯物論的なものだと弁じられよう(この言葉が部族の生活方法を集約し、そうした方法の主なる源たる物質的条件を認識しているものだという純粋に弁証法的な価値については言わないにしても)。「アニミズム」は、唯物論的人類学者たらん(少なくとも、他人の神々、他人の諸動機の集約点に関しては)とした十九世紀の観念論哲学者の符号としてとどめるには大きすぎる概念である。
要するに、「名誉」というような集約的な言葉は、毎日の生活でそれを測り、多くのことで斟酌に入れている者たちより、抽象的で「精神的な」形でしか捉えることのできない我々にとってより「幻影的」で「神秘化」されている。我々にとって絶対的で無条件に思われる言葉とは<すべての状況を包括するような言葉>しかなかった。この意味で、高度に神学的な用語でさえ、直接的に表現はされないにしても、それを使う人間には明確に感じられている非常に正確な非神学的意味によって暗黙のうちに変更されうるのである。
ある意味というのは、言葉を使う者がその意味に気づいていないために、あるいは、気づいているが隠したいと思っているために、あるいはまた、あまりに明白であるから言及する必要がないために、表現から除かれうる。もしある過去の表現が十分豊富に残っているなら、我々はそこから知られているのに隠されていた意味、明白すぎて言及するまでもない意味を抜き出すことができるだろう。(表立って表現されたイメージや観念とともにあったり後に続いたりするものを調べることで、当時はまったく気づかれていない意味を探り出すことさえできるかもしれない。)しかし、過去の表現が断片的にしか残っておらず、それが生れた状況についてもなんの説明もないことがある(当時の人間には理解されていたのだが)。とすると、「神秘化」はある部分単なる記録の副産物であり、その限りで我々はごまかされるが、同時代の者たちはごまかされるわけではない。観念論による歴史が、すべてそうした誤って解釈された抽象物から成り立っていることを発見したことにおいてマルクスはまったく正しいと思われる。しかし、もし我々がそうした包括的用語を毎日の生活で計量器として使っている人びとも等しくそれにごまかされていると仮定するなら、同じ誤りが我々にも影響を及ぼすことになろう。「状況の文脈」が言葉の意味に関わっている限り、歴史的文脈が死に絶えた後に残った言葉の記録は、実際そうであったよりも「精神的」であるように思える。本のなかにあるのは精神だけである。だが、それが栄えたときに用いていた者は、むしろ物質的なものと認めていたのである。
例えば、1655年1月22日に下院で行なわれたクロムウェルの演説を考えてみよう。彼は革命を「神が顕現したもの」と見なしている。その成功が<それ自体>神の意志を証明するという前提のもと正当化する。神意が課した「必然」と見なす。マルクス主義者の規範によって判断すると、こうした表現は「神秘化」の完璧な例と言えるだろう。
そうした発言を取りやめることも十分考えられる。しかし、彼は立法府に向けて発言しているのであり、そこでなされるべき仕事がある。そこで、彼は欠けているように思われる資格について自分から発言する。
宗教は最初に争われたものでは「まったく」ありません。しかし、神は最後にこの問題を持ちだされたのです。おまけのように我々にお与えになったのでした。そして、最終的に、それが我々にとってもっとも大事な問題だということが証明されたのです。
反対者ではなく、クロムウェル自身が、争いは宗教的な動機から始まったのではないと言っている。彼は同時代人が知っていたことを語っているのだが、それは<後に>神秘化によって否定されるかもしれない(クロムウェルの発言は「形式においては正しい」が「本質においては」正しくない、と主張したときカーライルが実際に行なったことである)。
「偉大な革命において『必然をなした』」神を責める者は「神の御業を中傷し過小評価するものである」と主張した後、彼は言う。
あなた方が我々に課し、我々が求めなかったもう一つの必然がありました。私は神に、天使に、人間に訴えかけます——もし私が政府の条項に従って金銭を調達しようとするなら、強制などされることはないのです。
実際、この演説を革命を動機づける理論として調べ、マルクス主義思想に完全に適合したものとするには少々修正が必要である。「神」や「神意」を普遍的な場面、諸条件の総計のための「中立的」で「技術的」な用語と考える必要がある(スコラ神学は、神を「あらゆる可能性の土壌」と定義することで橋を架けてくれる)。
かくして、クロムウェルは、革命が彼の陰謀者としての特殊な技能によっているのだという非難をあざ笑う。
「護国卿の狡猾さだ」という者もいます——私はそれを受け入れようとします——「彼の悪巧みで、陰謀が成し遂げられたのだ!」と。そして、他国では「英国には熟練した手際をした狡猾な者が五、六人いる。彼らがすべてを実行したのだ」という者がいます。なんたる冒涜でしょう!この世界で神への信仰をもたず、神と共に歩むことのない者は、なにに祈り、なにを信じていいのかを知らず、神からの返報を受けることを知らないのです。
「英国の狡猾な五、六人」への言及は、「一握りの非常に有能な人間が一億八千万のソヴィエト市民を掌握している」というチャーチルの言葉の源になっているのかもしれない。いずれにせよ、「世界の神」への言及は、この発言をどのようにマルクス主義に翻訳するかについてヒントを与えてくれる。「冒涜」は「敵のプロパガンダ」と言い換えられよう。神(普遍的根拠をあらわす言葉)との共同作業が、弁証法的唯物論(普遍的根拠をあらわす言葉)の知識となろう。神に祈り、信じることは、歴史の唯物論的解釈を信じ、それに従った設計をすることである。「神からの返報」は、「客観的状況」の本性に従った行動でもたらされる成功ということになろう。どちらの立場も、状況は押しつけられたものではなく、誰も「必然」を違えられないことに同意する。ロシアの政体が一握りの狡猾な人間の手になるものでしかなかったら、熱心なスターリニストのほとんどが言うだろうように、それが成功することはあり得ない。歴史の道程がその背後になければならない。あるいは、クロムウェルの言葉で言えば、
もしそれが人間の作りあげた発明品であり、古くからの陰謀や企てが実行されたもので、神意のあらわれでないのならば、いずれ崩れ去ることだろう。
我々は、英国の護国卿とロシアの独裁者の間にある明らかな動機づけの違いを否定しようとしているのではない。我々が示そうとしているのは、もっとも「神秘化」されているような言葉にも、物質に結びつく多くの関連事項が含まれ得るということである。反対に、クロムウェルとマルクス主義が密接に関連しているのは、「必然性」に対する訴えかけである。究極的な動機づけの言葉は、「高度に抽象的」な性質のために、動機づけの重要な構成要素を省略してしまうに違いない。弁証法的唯物論による歴史的動機の<一般的な>言明は、「神意」についての言明と同じ程度に「神秘化」されている——どちらも、行政についての詳細な状況への言及は省略されているからである。どちらの言語でも、官僚的、行政的詳細は「精神化」されている。生産や行政の実際的な操作に関して言えば、諸状況を「必然性」として扱うことは、必然性を歴史の不可避的な法則と同一視するにしても、そうした法則を通じて顕現する神意と見るにしても「神秘化」されている。だが、他方において、どちらの言明もそう見えるほど「神秘化」されても「一般的」でもないのは、いずれも特殊な社会的文脈にある人びとによって使用され、そうした物質的条件から多様ではあるが特殊ではない仕方で意味が生じているからである。
実際、人がその動機を「称賛的覆い」であらわすときでさえ、ラ・ロシュフーコーはそれを自己欺瞞としてではなく、婉曲な自己批判のあらわれだとするにたる理由があることを示唆している。というのも、人が自らの行いについて語るとき、通常は彼らを盲目にしている自己愛が、押さえつけ偽装していたごく僅かな不都合な細部をも正確に描きだすからである。そして、彼はそうした駆け引きを、人はあなたが考える以上に自分の欠点を知っている、ということの証拠としてとるのである。
Ce qui fait voir que les hommes connaissent mieux leurs fautes qu'on ne pense, c'est qu'ils n'ont jamais tort quand on les entend parler de leur conduite;le meme amour-propre qui les aveugle d'ordinaire les eclaire alors et leur donne des vues si justes qu'il leur fait supprimaer ou deguiser les moindres choses qui peuvent etre condamnees.
ある階級や集団が同じように偽装した言葉を好むとき(ラ・ロシュフーコーの発言が示唆しているように)、<陰謀>というに足るほどの「幻影」があるわけではない。階級の各個人の<自尊心>が関わる個々の問題だけが考えられている。恐らく、偽装が社会的陰謀と言えるまでになったとき、完全な幻影への道が開かれるのである。