トマス・ド・クインシー『自叙伝』6

 情熱的な記録に割り込む個人的な虚栄心はどんなものでも致命的な結果をもたらす。それは精神の一心不乱さや、ただ根深い情念だけがそこに発し快適な住みかを見出すことのできる自己忘却とは相容れないものなのである。それゆえ、そうした傾向が影をさすだけでも、或は外観上の表現としてこの追憶に入り込むことは私にとってはこの上なく苦しいことである。しかし、他方、この叙述の自然な流れを阻害することなしに私の子供時代の贅沢な環境や貴族的な優雅さが読者に間違った印象を与えるのを正すのは不可能であり、是非とも最初から、真理だけがもつ簡潔さによって、この予備的な叙述が語られている頃、私の家族がどのような社会階級にあったかを言ったほうがいいと思う。そうでないと、この幼年期の経験を忠実に報告することにおいて、読者に私の家族が本当に属していた階級よりも高い階級にあったかのような印象を与えることが殆ど避けられないだろうからである。そしてこの印象は私が計画的に、遠回しに与えたものに思えるかもしれない。


 私の父は商人だった。例えば地下室で食品雑貨類を売る小売商人といったスコットランド的な意味での商人ではなく、英国的な意味の商人であって、それは厳密で他にない意味をもつ。彼は海外との交易をしており、それ以外はしなかった。卸売り業者であり、それ以外ではなかった。最後の限定は重要であり、それによって彼はキケロの見下したような区別(1)の利得を得ることができるからである。つまり、ある種軽蔑されるべき存在ではあるが、ローマの元老院にさえ強烈に軽蔑されるということはない。この不完全にしか軽蔑されない男は早くに、この章に記録される出来事の後すぐ死に、妻と六人の子供には年に千六百ポンドになる特に責任のない場所が残された。当然、私がいま語っている時期には父はまだ生きており、通常の商業上の利益よりもずっと多くの収入があった。英国の商人の生活を知る者は誰でも、この階級の富裕な英国の家庭では————富裕というのは、商業上の評価によって特別に金持ちであるというのではない———家政が外国の同様の階級では知られていないような寛大さのうちに行われていることを思い起こすだろう。例えば、こうした家での召使いの編成は他国とは異なり人数で決められ、英国の商人の社会的地位を単に商人として解釈する外国人を驚かすだろう。しかし、この同じ編成を、質と与えてくれる快適さの量、優雅な生活上の便宜について評価すると、英国の商人の社会的価値とまた英国の召使いの社会的価値によって二重の驚きに満たされるだろう。というのも、英国が家事向きの召使いの楽園だということはこれ以上ないほどの真実だからである。事実、物惜しみしない家事はもっともたちの悪い召使いにまで行き渡っており、つまらない倹約に対する軽蔑は英国に特有のものである。この点において、階級としての英国の商人の家庭の一般的な支出は、大陸の他の国々の商人だけではなく、明らかにヨーロッパではもっとも立派な我が国の貴族の貧しい者たちよりも大きく上回っている。この事実は子供の時から英国およびアイルランドで何回も個人的に確かめる機会があった。この特別な変則が英国の商人の家政に影響して、階級同士の関係の通常の尺度が乱されている。階級と通常支出に比例する一般的な階級の表現との釣り合いがここでは中断され混乱させられているので、一つの階級は職業の名前の元に集められ、より高い階級は家政の壮麗さの元に集められている。それ故私は読者に警告するが(或は私の説明ですでに警告になっているかもしれないが)、その時々の贅沢さや優雅さを見てそれに対応する階級の高さを推論するべきではない。

 

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*1:1.キケロは、『倫理学』のよく知られた一節において、貿易はもし小規模であるなら望みがなく、大規模なものならひどく凶悪なものでもないと言っている。