トマス・ド・クインシー『自叙伝』4

 私の父の蔵書には英語で書かれたもの以外の本がないだけでなく、ひげ文字文学に関するものもまったくなかった。実際、それを楽しむために勉強や労力を必要とするような種類のものはまったくなかったのである。この点について言えば、学者や研究者にとっては貧弱な書庫である。その使用と目的は努力や衒いぬきの楽しみ、束の間の慰みであった。しかしそれでも自由と知的な環境はあったのである。彼の階級の殆んどの者と同じように田舎に住んで、私の父は午後の楽しみのために劇場に行くことも、或はなにか盛り場のような所へ行くこともできなかった。劇場に行くときはいつも家族を連れて行き、それは五年に一度程度だった。本、大きな庭、温室は日々の楽しみのためのものだった。特に温室は遠慮がちに農場と呼ばれる田舎の家の主要な部屋として家についているのが普通で、私はそこで子供時代を過ごした。そこは私の父が自分のために建てた広々とした家のなかでもその大きさにおいてまさしく主要な部屋であった。そして温室は、大きさは色々ではあるが、私が学生の時に訪ねた家のほとんどにあったものなのである。


 父と彼の階級の肖像を終えるにあたって、彼らが一般的に最も尊重した詩人はクーパーだったと言っておこう。当時丁度亡くなったジョンソン博士は複雑な感情でもってかなりの尊敬を集めていた。それは部分的には彼の勇気があり逞しく頑なな道徳性、彼の見方に従えば真理への一般的な愛のためである。そして(通常)荘厳で、整然とし、人工的で、大袈裟でさえある文を好む者は彼の言葉づかいに組みし、母国語の自然な優雅さと独特な生気を快く受け入れる者は普通反対した。最後に、当時の家にはほとんど音楽がなかったことを付け加えておこう。それに、勉学に払われていた尊敬――私はスコラ的な学問のことを言っているのだが――は不釣合いなまでに過度だった。彼ら自身は学校教育を受ける立場にはなかったので、私の父や彼の階級は教育を受けた者に対して非常な崇敬の念をもっていた。自然な遠慮から彼らに事実以上の優秀性を帰していたのである。その仕事や生活の実際が彼らに相当するような利点をもつものだということを認めることができなかったのである。また、しばしば学者というものがその本において退屈で生気のないものだということもある。一方交易の活気や実際的な仕事上の争いは彼らの判断力を研ぎ澄まし、理解力を鋭くし、可動性を増すのである。クーパーに対する一般的な評価についてはしょうがない。英国の田舎の家庭、その永い冬の夜、火の周りを取り囲んだソファ、窓にかかった厚いカーテン、紅茶のテーブルに「沸き立って大きな音を立てているポット」、新聞と長い議論――議会を支配するピットとフォックスに法曹界のアースキン――これらすべては彼らの特定の時代、特定の場所の反映である。田園的な風景の特徴はクーパーが経験した英国であり彼らが経験したものでもあるのである。そこで、そうした特徴のうちに彼らは自分たちと同じ地点から物事をみる同国人にして同時代人を認めたのである。その時広がっていた彼の大きな公的な問題に対する道徳的な告発は彼ら自身の良心の原則にぴったりとはまっていた。こう言うことで(奴隷貿易や品質保証などのような)道徳的な意味についての問題にはどんな不確かさもなかったということを意味しているのである。彼らはみな、明らかにフランス人にはまったく関心がないような問題、つまり公的なそして外国への行為において自国は公正であるべきだということを非常に気遣っている。他の点、政策については、フランス革命が最初の見込みを変え始めるまでは、特にアメリカ戦争の間には大きな意見の相違があった。このことの後、意見が一様化し、長年その階級を支配した。