ブラッドリー『論理学』70

 §9.手渡されたのは赤<ではなく>、白だった。白<あるいは>赤というものが与えられるわけではない。資格のための条件というのは(この例を考える限り)、まず「白」で、次に「白がなければ赤」「白なしの赤」である。<これらの>条件が両立可能であるとは考えることができない。というのも、もし白があれば、赤は白の不足を補うことはないし、白の除外によって成り立っている赤がその存在を認められることさえあり得ないからである。白が存在するとすれば<それ以上の問題はない>。しかし、白が存在しないなら、赤がその目的に答えることになろう。こうした意味合いを、一方に「白の現前」があり、他方に「白の不在と赤の組み合わせ」がある二者択一として表現することができる。これは<実際に>あらゆる可能性に対応している。

 

 それに対して提起される論理的な反対意見は、「あるいは」が部分的に連言的なのだというものではなく、既に見たようにそれは完全な間違いである。選言は連言であるからではなく、不完全であるから間違いなのである。選言は赤と白の共存の可能性を無視しており、それを排除することによって成り立っている形式である。その理由は明らかである。白の現前という単純な事例で扱うことが可能なので、個別の可能性を個々に考えねばならないことはないからである。「白」が実際には「赤とともにある白か、赤を欠いている白」を意味し、「赤」が「白がない場合の赤」を意味し、両者の不在に対して完全な予防措置が執られたなら、選言は完全な形で完成し、すべてを言い尽くしたことになる。選択の対象となるのは(i)赤とともにあるか、赤がないときの白、(ii)白がないときの赤、(iii)どちらもない場合、で、これらは完全に両立不可能である。

 

 §10.これはイェボン教授によって呈示された議論(『諸原理』73頁)に対する回答になっていると思う。二者択一の排他的な性格に、彼は間接的な議論で反対している。もしそうだとすると、「鋳造可能な稠密な金属」というような語の否定は「非鋳造、あるいは非稠密、あるいは非金属」ではあり得ないことになる。ここには七つの異なった可能性があり、それでは不条理である。

 

 まず始めに、私にはその不条理が確認できないと言わねばならない。「鋳造可能な稠密な金属」という語が使えない場合を言い尽くそうとするとき、その数が可能な組み合わせの数より少ないとなれば不条理だということになろう。しかし、もし「あるいは」が排他的であり、排他し合う<あらゆる>場合を呈示しなければその語を否定できないというなら、それはまさしく我々が考慮してきた間違いである。「非鋳造、あるいは非稠密、あるいは非金属」において、分離されたものは両立不可能だが、すべての可能性が述べられているわけではない。それぞれの「あるいは」は「~がなければ」を含意していると理解しなければならない。「非鋳造」は鋳造可能でないものの<孤立した>存在を意味しているのではない。それは<一つの>可能性ではない。幾つもの可能性を覆うクラスである。それは主語が金属であろうが非金属であろうが、稠密であろうが非稠密であろうが、鋳造可能性の不在を意味している。多くの事例に適用されるものとして使われるのでは、無視される組み合わせがあったり、「非鋳造」という語が曖昧だというのは筋の通った反論かもしれない。しかし、そうした技術的反論はほとんど重要性がなく、「あるいは」が厳密な分離以外のなにかであることをまったく示してはいない。