トマス・ド・クインシー『自叙伝』10

 私の先達であり仲間を連れ去った病気について詳細に述べる必要はない。(私の記憶によれば)その時彼女は九歳に近く、私は六歳に近かった。多分年齢や判断力から来る権威が自然に彼女を上位者としていたのだが、それに彼女自身は認めようとしない優しい謙虚さが結びつくことで彼女の存在は魅力あるものとなっていたのである。もしこんな推量が信じられるなら、ある日曜日の午後、その時まで微睡んでいた脳の病気の導火線に宿命的な火が入れられたのである。彼女はお気に入りの女中の父の労働者の家でお茶を飲むことを許されていた。彼女がこの召使いと帰ってきた時、日は沈み、草地は暑い日の後のこととて靄を発していた。この日から彼女は病気になった。こうした状況に置かれた、私がそうであったような幼い子供は不安を感じないものである。苦痛や病気に対する戦いについては、医者を特別な人間と見なし、当然のことのように任せきりだったので、結果についてはなんの気遣いも持っていなかった。当然、私は姉が寝台に横になっていなければならないのを悲しんだ。彼女の呻き声を聞くとよけいに悲しかった。しかし、こうしたことは全て私にとっては一夜の心配に思われ、夜明けがすぐにくるはずだった。年上の乳母がこの思い違いから目覚めさせたときこそが暗闇と譫妄の瞬間であり、神の稲妻が私の胸に発射され、姉が死ななければならないことを確信させたのである。まさしくこれは「思い出すことができない」(1)ほどの、全くの無条件な苦痛である。思い起こされることはみな混沌に巻き込まれてしまう。虚ろな無秩序と困惑が私にのしかかる。なにも聞こえずなにも見ることのできない私は、あらわにされた事実によろめいていた。私はその時のことを、私の苦悶が最高になり、彼女の苦悶が別の意味で近づいていたときのことを思い出したくない。全てはあっけなく終わったと言うだけで十分だろう。もう目覚めることのない眠りを眠る彼女の無邪気な顔を見下ろし、私には慰めのない悲しみを悲しむことしかなかったその日の朝はついに訪れたのである。

1.「私は想像できないような恍惚のうちに
思い出すことさえできない苦悶のうちにいた」
           コールリッジの「呵責」の中のアルハンドラの言葉

 
 姉の死後、彼女の愛らしい頭がまだ調査のために損なわれていないとき、私は彼女をもう一度見ようと思い立った。世にこのことを知らしめようとするわけではないし、私とともにこの苦悩に立ち会わせようとするものでもない。私は「感傷的」と言われるような感情については聞いたことがなかったし、そうした感情を持つ可能性など夢見たこともなかった。しかし、子供においてさえ悲しみは光を憎み、人の目を避ける。家は大きく、二つの階段があった。そのうちの一つは正午には誰もいないことがわかっていたので(召使いたちは一時に昼食を取っていた)、私はこっそり彼女の部屋に上がった。部屋の扉に着いたのは正午から一時間あまりもたっていたように想像される。扉は閉まっていたが、鍵はそのままだった。入って私は戸を静かに閉めたが、全ての階に通じる広間にはなんの反響もなく壁は静まりかえっていた。それから、振り返ると、私は姉の顔を探した。しかし、寝台は動かされていて、背が私の方に向いていた。広く開かれた大きな窓以外私の眼に入るものはなく、そこからは真夏の昼間の太陽が日の輝きを降り注いでいた。天気は乾燥していて、空には雲一つなく、青空の深みは無限というものの典型をあらわしているように思われた。生の悲哀や生の栄光をこれ以上的確に表現するものを目は見ることができず、心は抱くことができないだろう。