ブラッドリー『仮象と実在』 171

[それは条件づけによる。]

 

 別の言い方をすると、どんなカテゴリー上の判断も間違っているに違いない。主語と述語は、最終的に、どちらも他方であることはできない。しかしながら、この目標にいたらないなら、我々の判断は真理へ到達することに失敗したことになる。もしそれに到達するなら、項とその関係とは消滅してしまうだろう。それゆえ、我々の判断はすべて条件的でなければならないというのは確かである。つまり、なにか他のものの助けがなければ、述語は維持されない。そしてその「なにか」は新たであっても条件的述語の内部にある限り、述べることはできない(1)。

 

*1

 

 しかしながら、あらゆる判断は仮定的(1)である、とはいわない方がいいと説得されることになる。その言葉が関係のない観念を導入する可能性があることは確かである。判断はそれが主張することが不完全であるという意味で条件的である。それだけでは、必要な補足が付け加えられるまでは実在に当てはめることはできない。加えて、この補足は最終的に未知なままである。しかし、それが未知であるあいだは、もしそれがあったとしても、我々の述語にいかに働きかけ、それをいかに変えるのか述べることはできないのは明らかである。というのも、差異の正確な性質が我々の知識に及ばないときに、その存在がなんの差異ももたらさないと仮定することが馬鹿げているのは明らかだからである。しかしもしそうなら、この述語に対する未知の変更が、多様な程度において、その特殊な性格を破壊することもあり得る。事実、内容は変更され、再配分され、混合され、完全に変容してしまうこともある。端的に言って、それ自体としての述語は、多かれ少なかれ完全に真ではないかもしれない。かくして我々は実際には、常に未知なるものに従属し、その恩恵を受けていると主張される(2)。それゆえ、我々の判断は、常にその拡がりにおいては異なるにしろ、最終的には条件的と言える。

 

*2

 

*1:(1)おそらく、ここで私の『論理学原理』を参照にできるだろう。絶対に関する 形而上学的言明でさえ厳密にはカテゴリカルではないことを付け加えられよう。第 二十七章参照。

*2:

(1)この言葉はしばしば時間的存在の存在を含み、それを離れても反論しうる。 ボサンクエットの見事な『論理学』I、第六章を参照のこと。

(2)それゆえ、最終的には我々は未知なるものの主張を受け入れねばならない。 しかしながら、「性質」は何も付け加えないこともあるし、間違ったものを付け加 えることもあるので、それを未知なる性質の述語化とは言わない方がいい(『論理 学原理』87ページ)。上述の教義は、根拠と帰結、原因と結果の相互作用に重大 な影響を与えるように思える。もし判断が純粋なものなら、関係がどちらの方へも つながることは確かに同意される(ボサンクエット『論理学』I、261-4ペー ジ)。しかし、最終的にそれが不純にとどまるなら、特殊化されない背景によって 常に性質づけられねばならないのなら、そうした状況を考慮に入れねばならなくな る。

一言一話 75

 

批評の読み方

 <報告された>快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか(夢の話、パーティの話の退屈さ)。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代りにーー楽しみ損うのは確実だからーーそれの覗き手になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する。すると、注釈はテクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は<機能を持たない>)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯。以下、無限。

覗きは状況によって無限の多様性がある。

ケネス・バーク『動機の修辞学』 49

.. 宮廷作法

 

 レトリックにおける「宮廷作法の原理」は、社会的な疎隔を超越するための説得技術を意味している。「異なった種類の存在」が交流しあうことに宮廷作法の「神秘」が存在する。かくして、我々は気後れや自ら課する制限にそうした「神秘」のしるしを見る。愛の激しい身体的徴候を歌ったサフォーの詩が愛の<魔術>を描いているように(愛する相手は「神のよう」である)、社会的なやりとりにおける気後れは、いかに歪められ薄められているにしろ、コミュニケーションの神秘のしるしと解釈される。

 

 高い社会的身分の女性(「優雅な女性」)が「社会のくず」たちのなかで放蕩に身を持ち崩してまで交わりを求めるなら、こうした性的堕落は、想像においてほとんど神秘的となりうる(別の観点から見ると、これは、ドストエフスキーの民衆に対する神秘主義にある、帝政的位階の強い存在を示唆する考えである)。そして、こうした条件のもとで、特殊な性的影響を描こうとする作家は、単なる「ポルノグラフィー」ではなしえないやり方で人を魅することができる。その作品はポルノグラフィーとして非難されるかもしれない。しかし、実際にその作品が具体化しているのは(遠回しで偽装はされているが)、シェークスピアの『ヴィーナスとアドニス』の魅力を形づくるのと同じ修辞的要素であろう(一方は、異なった階級の人間によるスリルに満ちた関係が扱われ、他方では神と死すべき存在の関係が描かれているが、真の主題は性的淫らさなどではなく、性的な言葉で神秘的に表現された「社会的淫らさ」である)

 

 <政治的>姿勢の自由な表現は許しながら、<性的な>猥褻さだけは禁じようとする検閲には位階的な動機が潜んでいる可能性がかいま見える。王政復古期の劇のみだらさに向かうピューリタンの姿勢を思い起こせば、革命的な<政治的>目的というのは、それに対応する<性的な>表現が同じように発展しない場合に十全な表現をとりうるのではないかと問える。

 

 皮肉なことに、検閲は、十分な時間があれば、必ずその目標を打ち負かすので、性的に革命的な表現をせき止めることは、政治的な表現を大いに活気づけることになる。この点から、たとえば、ウィルヘルム・ライヒコミュニスト的立場から、マルクス主義政治を反動として非難する「性的革命」へと移った漸進的変化を考えてみよう。ヘンリー・ミラーはフランスで英語の本を出版することで法を免れたが、彼は「科学者」として、ミラーの魅力ある「ポルノグラフィー」がなしえなかったやり方で法を免れることができた。両者とも、「性的革命」に集中することは政治的革命への熱意を弱めることの証拠と取れる。しかし、性的形象の政治的含意はこの点には止まらないだろう。というのも、より捉えがたい意味においては、こうした用語法はすべて最終的には同じ広範囲にわたる社会的政治的変化に寄与するからである。

 

 しかし、気後れの要因に立ち戻ってみると、「舞台負け」というのはどんなものであっても、社会的神秘の証拠だと言える。かくして、演者と観客とのはにかみの関係は神秘化の際限のないありようを示している。例えば、トーマス・マンの「ヴェニスに死す」や「マリオと魔術師」を考えてみよう。その範例は、おそらくは『千夜一夜物語』的な宮廷作法であって、そこでは語り手と魔神とが社会的隔たりを越えて互いに魅了しあうのである(アラビアほど魔術の力が社会的な位階と明らかに結びついている文化が存在しただろうか)。「ヴェニスに死す」では芸術家−観衆の関係が、階級としての若者と老人との作法と微妙に絡み合っている。「マリオと魔術師」では、社会的神秘が強い政治的意味合いをもっている。

 

 支配者は「親しみやすい」と同時に「隔てがある」存在(フォルスタッフのヘンリー王子との関係はこうした二つの原理の微妙な絡み合いから辛辣さを引き出している。)として、その立場によって眩暈できない限り、人々をくつろがせることで損害を被るだろう。我々の知る教師のなかには、物事の深層を抉るような簡潔で謎めいた問いかけ以外には、恐ろしい沈黙によって「神秘」(教える者と教えられる者との立場の違いからくる)を利用して恥じない者がおり、狼狽する学生たちは不安げに会話のとぎれを埋めざるを得なくなり、まるで仏陀と対しているような印象を受けるに至る。ほとんど言うべきことがない者でも、こうした手段によって、すべては言わないままにしているのだという印象を与えることができる。

 

 「グラマー」は宣伝の世界では神秘をあらわす新しい語である。自由民に厳格な軍事的動機を浸透させるのに不可欠と思われる厳格な階級の神秘を思い起こしてみると、アイゼンハワー将軍が大統領への出馬を拒んだとき、政治の予想屋たちが口にした、選挙戦は「グラマー」をなくしてしまったという言葉にこの語のもつ有効範囲がかいま見える。*

 

*1

 

 後催眠については、軽微な違反であれば実行するよう暗示をかけられると言われている(催眠が解かれたあと、電話が鳴ったらある人物の顔を叩くといった暗示が行われる場合で、かかった者がそれを実行しても、自分の行動についてなんらかの合理的な説明をつけられる)。しかし、暗示される違反が重大になればなるほど抵抗は大きくなり、殺人のような強く非難される事柄については従わないだろう。さて、軍隊の規律というのは、命じられさえすれば、もっとも下劣なことでもせざるを得ないほど強いある種の「後催眠の呪縛」を生じさせるに違いない。もちろん、共謀による支持がその仕事を助けてはいる。しかし、共謀そのものは、特に、低い階級の者が自分たちの行動を動機づける強い政治的目的をもたず、主に上官の命令による<団結心>に従う通常軍の場合には、階級の神秘によって強力に補強されない限り、完全な魔力を発揮することはできない。

 

 かくして、軍隊の階級につきまとう不快さのない「民主的な」軍隊をもとうとする理想主義的な希望には欺瞞しかないのではないかと疑われる。階級は軍隊の規律の動機そのもの<である>。階級がない場合、ふさわしい目的のため戦うことになる。しかし、それは軍人の動機とはなり得ないだろう。真の軍人は命令を受けたときに戦う。階級の「グラマー」だけが、彼の意志を制度の意志に服せしめるものである。かくして、軍人は常に軍隊を「民主化」する試みには抵抗するだろう。軍隊は本質的に民主的ではなく、プロイセン風であり、軍人は本能的にそれを知っている。(大きな飛行機を飛ばすのに必要な職業上の階級のように、純粋に技術的な職業道徳も数多く存在することは認めるべきである。そうした行動様式は本質的に軍隊的なものではないので、軍隊のやり方と完全に一致させるには苦痛に満ちた組織化が必要とされる。)

 

 先に見たマンハイムの著作は、宮廷作法の修辞を無視しているように思われる。しかし、「ブルジョア的」、「社会主義的」、「技術者的」宮廷作法を必要とする「修辞的状況」の諸条件を見いだすことなしに、科学的方法を教え、科学的社会を運営していくのに必要な位階的(官僚的)構造を考えることができるだろうか。マンハイムは知識人を特殊な階級と考え、その知識が彼らの資本だとした。そして、マルクス主義特有の神秘化の分析を無視して、マンハイムは、職業上の階級を形成する労働の分化が、同じように、そうした階級間の交流の宮廷作法的レトリックを生みだすのではないかと問おうとはしなかった。マンハイムは、マルクスにとっては否定すべきであった可能性を無視したがっている。

 

 マンハイムは、次第に完璧なものとなっていく知識の社会学が、<一定のテンポで>トイフェルスドレックの「衣装」の神秘を除去していくと仮定していたように思われる。(その問題が論じられているわけではないので、思いつくままに言っているだけだが。)しかし、少なくとも、党派的なイデオロギーについての社会学的な裁量が完璧ではない限り、伝統的な修辞学がいまだ必要だと我々には思われる。修辞学は、魔術、身振り、衣装、牧歌などを頼りにする社会(原始的であろうが、封建的、ブルジョア的、社会主義的であろうが)の「本質」にある疎外を橋渡しするのに不可欠な訴えかけの様式である。

 

 ここで再び、全廃論者が、そうした修辞は、「自然科学の支配」が完全に確立されたとき終わるのだと主張することもできよう。勢いよく生じている科学的神秘を盛り込んだ虚構のことを考えると、我々はそれには同意できない。しかし、未来についての同意は修辞の分析には必須ではない。我々の目的には、理想的な「神秘の少ない」科学的な社会においても、少なく見積もって、神秘的な社会交流への「強い傾向」が存在すること、我々がここで企てているような探求を要する、絶え間のない反修辞的な警戒を怠ってしまうや、そうした傾向に流されてしまうことを認めるだけで十分である。お望みなら、社会的階級が「廃止される」ことを信じるがいい。たとえそうなったとしても、少なくとも、それを復活させようとする「誘惑」は常に大きいだろう。そして、そうした誘惑が存在する限り、異なった階級間の「宮廷作法風のやりとり」にあるレトリックへの「誘惑」もまた存在する。

*1:*対象にその社会的秩序における地位に準じた輝きを与え、知覚の性質にさえ影響する位階的動機についての民衆の本能的な認識を示している点からも、この語の意味についてはよく考えてみる価値がある。ウェブスターによれば、この語は交霊や魔術を意味する「gramarye」の転訛である。(文法grammarと魔術との関係は、市民的宗教的実務における聖職者の役割が大きく、読み書きの知識そのものが身分の強力なしるしであった時代にまでさかのぼることは疑えない。)この語はまた、アイスランドで視界の悪さを意味する語にも関係していると思われ、アイスランド語でglamrというのは月や幽霊の名なのである。「グラマー」には四つの意味がある。対象を実際にあるものとは異なったようにみせ、眼に影響を与える魅力。妖術、魔法、呪い。物事を実際にあるのとは異なったようにみせるもやのようなもの。人目を惑わすほど誇張され美化された対象によって喚起されたり、結びついたりする人為的な関心。

ブラッドリー『仮象と実在』 170

[真理――その性質。]

 

 我々はすでに思考過程の主要な性質についてみてきた(1)。思考は本質的に「そこにあるもの」と「なんであるか」を分離することにある。この分解は事実上の原理として受け取れる。従ってそれは事実をつくりだす試みを拒否し、内容に自らを限定する。しかし、この分離を抱え込むことで、またその独立した発展を極限まで追い求めることで、思考は間接的に崩壊した全体を修復するよう努めている。それは自律的で完全な観念の配列を見いだそうとしている。そして、この述語によって実在は性質づけられ、妥当性を得なければならない。そして、すでに見たように、その試みは結局の所、自滅に終わるだろう。真理はそれがあらわしているものを意味し、意味しているものをあらわすべきである。しかしこれら二つの側面は最終的には両立不可能であることが証明される。主語と述語のあいだには取り去れない差異があり、この差異は主張されていることに従えば思考の失敗を示しているのだが、もし取り除かれてしまうと思考に特殊な本質が完全に破壊されてしまうだろう。

 

*1

*1:(1)第十五章、十六章。『マインド』第47号参照。

一言一話 74

 

何でもないこと

 <何でもないこと>は<何でもないこと>としか言いようがない。<何でもないこと>はおそらく、どんな言いかえ、どんな隠喩、どんな同義語、どんな代用語をも許さない、言語のなかの唯一の語である。なぜなら、<何でもないこと>をその純粋な指示体(<<何でもないこと>>という語)以外のものによって言うことは、ただちに何でもないものを充満させ、それを否定することになるからである。オルフェウスがふりむいてエウリュディケを失うように、<何でもないこと>は言表化される(強く=言われる)そのたびに意味のいくらかを失う。それゆえ、ごまかす必要がある。<何でもないこと>は人を裏切る一種の暗示によって斜めに、側面からとらえられないかぎり、ディスクールによってとらえられない。

ナンセンスとは厳密に区別する必要がある。

ケネス・バーク『動機の修辞学』 48

.. 「神話的」基盤と「状況の文脈」

 

 感覚的イメージと神話的イメージには本質的な差異はないと考えられる。両者とも、単に、観念の修辞的な補強物として扱える。それゆえ、公的な表現として社会的に流通し、多かれ少なかれ限定的集団の個別な観点をあらわし、普遍的妥当性のもと特殊な利害を得ようとしている点において、三者とも「イデオロギー的」だと言えるだろう。マンハイムの考察もこれに基づいて進められているように思われる。

 

 しかしながら、プラトン的形相を額面通りに受け取り、弁証法的構造によって分析するなら、観念が感覚的イメージを超越し、神話的イメージが観念を超越する究極的な秩序を見いだすことになる。最終的段階には、道徳的知的発達、訓練と加入儀礼を通じて到達されよう。こうした形式的手順は教説の説得力を高めることとなろう。その主張を疑ったとしても、修辞的技巧として我々の注意を要する。

 

 論証的理性が弁証法的だとすれば、神話的イメージは理性を超越する動機を形づくるものとして扱える。また、経験的な検分では手に入れられない人間と究極的な諸動機の基盤との関係をあらわすことができるであろうから、「宗教的」であるとも言える。

 

 かくして、様々な可能性がある。観念論的で自己愛的な美的神話(ハート・クレーンのような)を手に入れることもできる。「無意識の」動機が神的なものと同一視できる限り(両者とも論証的理性の領域を越えているということによって)、「美的」神話は「宗教的」神話の代替物となり得る。

 

 こうした混同がどの程度まで正当化できるかここで決めようとする必要はない。武器にまつわる多くの冗談に見られるように、「宗教的ガンマン」の「神話的」姿は多くの曖昧で「無意識な」性的動機をあらわすと指摘しておけば足りる。また、深遠なスタイルというのは、罪の「謎めいた」告白であるとともに、象徴的な昇級の主張であり得る。この昇級は、厳密に物質的な利害の希望と比較すれば「精神的」だと言えよう。そして、様式化された謎めいた告白の公的な受容は、詩人に対する遠回しな免責なので、そこにもまた倫理的に動機づけられた宮廷作法が存在するだろう。なぜ含意に飛んだイメージが、むき出しの感覚的なものよりか超越的な「神話的な」ものと感じられるかを理解するのはたやすい。

 

 かくして、いまでもしばしば、倫理的な神話において、イメージは超越的な観念と捉えられるが、単なる観念の侵入は嫌われる。たとえば、どれほど多くの読者がキーツの「ギリシャ壺のオード」の最終連にある美の教義に反対するか考えてみればいい。あるいは、「老水夫の詩」を締めくくる「道徳」に寄せられる同じような不満を思い起こしてみるがいい。恐らくこうした抵抗は、大部分、神話的イメージよりもむしろ観念が展開の最終段階になっている事実にある。こうした「究極」を受け入れ可能なものとするには、また別の分析が必要である。

 

 キーツの詩については、そこには「謎めいた」意味が含まれているのではないかという気にかかる予感がある。それが正しいなら、その意味は、キリスト教的情熱をすっかりロマン主義的情熱に変化させた詩人にとって、美に対する神聖な勤めが<下水の上の教会>でなされうるものである限り、「ジョイス流に」、つまり、「美」と「真実」とを同じ語族に属するまで地口によって、できれば猥褻な意味をもつよう変形することで最もよく得られる。内気と用心深さのため、長いこと我々はこのオルフィウス的な発言の意味を明らかにすることを妨げられてきた。(その方法の一例を挙げれば、「美beauty」に即座に見て取れる意味の一つは「身体body」であり、「真理truth」は二つの文字を入れ替え、子音の一つを別なものと交換することでジョイス流に意味深いものとなろう。)

 

 コールリッジの「道徳」についてはこうである。麻薬との一体化によって複雑になっている彼のロマン主義的な耽溺において、純粋に道徳的な努力によって、あるいはより正確に言うと、<道徳化しようとする>努力によって繰り返し救われる場面があった。ロマン主義の倫理的慣習では、通常、強迫的な形象からの理性的回復は作品にあらわされるべきではなく、作品外で処理されるべきだとされてはいるが、それがまさしく彼の真実であったから、誰にとっても幾分かは真実であろうと我々は信じるのである。

 

 しかし、明らかに、「究極的な」根拠を指し示すものがいかに「神話的」であっても、それ自体は、社会学的に記述できる特定の時間において生じてきた。この意味で、その個別の利害はマルクス主義の「イデオロギーの神秘化」の分析によってあらわにされる。あるいは、より和らげられ、中立的なマンハイムの遠近法主義を使用することもできる。あるいは、実証的なレベルでのより一般的な分析である、ブロニスロー・マリノウスキーが「原始言語における意味の問題」(オグデンとリチャーズの『意味の意味』の補遺として出版された)で説明し展開した「状況の文脈」という概念を使うこともできる。

 

 そこでは、マンハイムの著作よりも言語的行為と非言語的な場面との関係が、より一般化された形式で述べられているが、それは、マリノウスキーの人類学では、言語に影響を及ぼす部族的な均質性に重点が置かれているのに対し、マンハイムは、むしろ、社会の際だって不調和な要素を超越するための洗練された技術に関わっているためである。社会的多様化の始まりは、マリノウスキーが研究している部族社会にも十分に見て取れる。その生活様式にはすでに、労働の分化とそれに伴った社会的身分の相違、役割の多様性において行動の一貫性を維持する修辞的技巧としての魔術の使用(神秘化)がある。しかし、ここで重視されるのは集団的側面における言語の分析であり、議会的なアゴーンの観点である。

 

 マリノウスキーは、ニューギニアポリネシア人たちの調査を通じて集めた記録を英訳する際に直面した問題について記している。「魔術の文句、民話、語り、断片的会話、情報元の言葉」などである。その多くには、直接に対応する言葉が見つからなかった。それゆえ、「現地の語を一語一語、英語に入れ替える」翻訳の代わりに、そうした記録に含まれる慣習、社会心理学、部族組織を記述する必要を理解したのである。

 

 その必要を一般化して、彼は「状況の文脈」という表現を提示したが、それは次のようなことである。

 

一方において、<文脈>という概念が拡張されねばならないこと、他方において、言葉が発せられる<状況>を言語表現には無関係なものとして無視することは決してできない。

 

 

マリノウスキーはこの言葉を、生きた、原始的な、語られる言葉に当てはめ、それを「その本性上いかなる状況の文脈からも孤立し」、既に使われなくなった古典的言語の記録と対照的なものとした。というのも、そうした文章は「自己充足的で、自明の明らかな目的のために」書かれたと考えられるからである。しかし、我々は既に、ベンサムマルクスの考え方によって、そうした洗練された記録であっても、状況に左右されるものであることを考察した。以前にも言及した「中世のレトリック」でリチャード・マッケオンは次のように書いている。

 

ピーター・アベラールが明らかに相矛盾するテキストをそのSic et Nonに集めたとき、序文で彼が明らかにしたそれらを解釈するための規則は、長い時間をかけて教会法学者が洗練させてきた規則を発展させたものだった・・・それには、文脈を注意深く考察すること、テキストの比較、時間、場所、人物の特定、発言の元々の意図の決定、一般的基準と特殊基準とを区別することなどが含まれている。この方法が更に進むと、矛盾の弁証法的な解決になるが、この段階においては、方法は、弁証法的というよりはむしろ修辞的である。

 

 

こう修辞を勘案することは、明らかに、形式的な記録文章であっても、言語外的な状況に関心を払うことになる。スコラ哲学であっても、マリノウスキーが人類学で考察したことと異ならない。「状況の文脈」の原理が、あらゆる言語表現に適用されることを示している。

 

 マリノウスキーの人類学的(あるいは民俗学的な)方法は、言語的行為と非言語的な場面との関係をもっとも一般的な形で示す一種の「科学的挿話」として価値がある。そして、彼は原始的な発話において、「記述ではなく、行動を生みだす」プラグマティックな言語の使用を研究しているので、彼の議論は、発話の修辞的要素一般を例証する教育的目的に特に役立つものである(オグデンとリチャーズの「語の力」の章とともに)。

 

 言語行為の言語外的状況についての修辞的な関心は、意味の側面から見ると、すべて、実際の語彙のうちにあり、感覚的経験の諸条件(感覚的イメージと概念の領域)にその根拠をもっている。しかし、それらはまた諸関係と諸条件をも扱う——そして、しばしば高度に合理的な解釈を必要とするので、我々は弁証法的な秩序へ向かうことになる。特に社会的政治的領域において、重要な諸関係や諸状況がなんであるかについては多様な体系的理論があり、競合する主唱者が互いに対立しあっているので、究極的な秩序に還元することによる弁証法的妥協あるいは弁証法的解決が必要となる。

 

 また、技法的な意味においては、神秘的で究極的な根拠ばかりでなく、実証的な社会学的根拠でさえ、言語行為を「超越する」ものと扱えることは記しておく価値がある。というのも、それは言葉とは別のものであり——言葉を実証的に還元することは、あらゆる言語的説明が「示唆的」である限り、「神秘的な」要素を含まなければならないからである。語り得ないものの神秘とともに、象徴的に生まれてくる神秘がある(たとえば、広く行き渡っている社会秩序の位階的精神病を通じて自然を見ると、自然の事物は、自然に固有のものではなく、所有関係から二次的に生じる契約と奪取の象徴となる)。

 

 しかし、こうした考察は、技術のもっとも純粋でプラグマティックな側面にさえ「神秘的な」要素がある点を自問するには必要であるが、通常の目的に際して我々はそう厳密ではあり得ない。大雑把に言って、マンハイムの知識の社会学は、現代のリベラルな科学が「イデオロギー」の超越を目的とする際の代表的な方法であるように思える。どちらがよりいいかを決めようとする「ねたましさの」要素なしに、レトリックの本性を例示しようとするなら、それをプラトン的対話の方法と対比できる(修辞的党派性から究極的な秩序による解決に向けての弁証法的過程を代表するものとして)。実証的な真理を求める社会関係についての「科学」は、イデオロギーと実在的な用語との相互関係を認識し、イデオロギーが仕える非言語的な条件を指し示そうとするだろう。そうして、意見(レトリック)から知識(レトリックに対立すると考えられる)へと進もうとするだろう。その後に、修辞的と呼べるような生き生きとした訴えかけるところのある見せ方(キケロのdocere)、ある種のレトリックが導入されるだろう。

 

 弁証法的方法も、この意味において修辞的となろう。しかし、他の修辞的要素も同じように使われているのが認められる。第一に、劇的アゴーンの修辞、それぞれが他方を打ち倒そうと敵対する党派の衝突がある。次に、弁証法的な解決の修辞的魅力、そうした闘争を体系的に超越する形式的満足がある。最後に、enargeiaの修辞があり、形象を越えた新たなヴィジョンが「眼前に彷彿とされる」(もっともこの明快さは科学的説明の明快さとは同じではなく、科学的説明が経験的知識をより生き生きとさせるために形象を用いるのに対し、それには経験的な領域を越えた動機をあらわすために「神秘的」イメージを使用することが含まれている)。

 

 修辞分析の目的にとっては、これらの方法のどれかを選択する必要はない。それらの相違と、修辞的、弁証法的要素がそれぞれでどのように働いているかに注意する必要があるだけである。更に、この二つが常にはっきりと対立すると考えられるわけでもない。マンハイム千年王国説の修辞的働きを考慮したとき示そうとしたように、諸動機についての洗練された言明には多分両者が含まれることになろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 169

第二十四章 真理と実在の程度

 

[絶対に程度はないが、それは存在については真ではない。]

 

 前の章で我々は真理と実在の程度についての問題に到達し、ここではこの観念に含まれるものを明確にするよう努めねばならない(1)。こうした試みは、完全にまた詳細にわたって行うとすると、あまりに遠大なものとなろう。いかに物理的精神的世界が、多様な段階と程度においてひとつの絶対的原理によって実現するかを示すことは、形而上学の一大系を含むものとなろう。そうした体系を私は打ちたてようとしているものではない。私が努めているのは、実在についての納得のいく一般的見解を得て、それを数多くの難点や反論から守ることだけである。しかし、そのためにはより高次なものとより低次なものの性格を説明しそれを正当化するのが本質的なこととなる。この点を扱うのに、私は我々がすでに思考に与えた位置づけ(第十五章及び十六章)をさらに発展させることになろう。

 

*1

 

 絶対そのものを考えると、もちろんそこに程度は存在しない。それは完全であり、完全においてそれ以上も以下もないからである(第二十章)。こうした性格は現象の世界においてのみ存在し、また意味を持つ。実際、同じ絶対性が時間における存在によっても保持されているように考えることも可能である。ある事物はある場所をもち、あるいはもたないかもしれないが、現前と不在の中間に住まうことはできないからである。この見方は、時間における存在が実在であることを仮定しているだろう。実際上、またある目的においてはそれは認めうる。しかし、間違っていることを別としても、その仮定は自然に自らを越えていく傾向にある。というのも、もしある事物がより少なくもより多くも存在することができないとしても、それが多かれ少なかれ存在をもつことは確かに違いないからである。それは直接的な現前によって、またさらにその影響や相対的な重要性によって居場所を奪うかもしれない。かくして、最終的には、我々が存在を「もつ」ということで理解していることが正確になんであるかをいうことは困難だということがわかる。我々はその主張にあらゆるものは同様に、同じ程度の存在をもつという逆説を見いだしさえする。

 

 しかし、形而上学においては、我々は長い間この一面的な見方を越えて進んできた。一方において、時間的事実の系列は理念的な構築物に存するとみられてきた。実際、全体としてというわけではないが(第二十三章)、本質的に理念的である。そして、そうした系列は現象でしかない。絶対的ではなく相対的である。他の現象と同じく、より多い、より少ないという相違を認める。他方において、それ自体現象である真理はこの未熟なエッセイからの無意識的また故意の逸脱であることを見てきた。この上時間的な事実によって持ちだされるばらばらな主張を考えなくとも、実在と真理の程度の問題について一般的に扱うことができる。

*1:(1)おそらく他のすべての章以上にこの章において私はヘーゲルに負うところが 多いと言えるだろう。