トマス・ド・クインシー『自叙伝』22

 それは常になく重々しい夏の午後だった。召使いと我々四人の子供は、家の前の芝生に集まって数時間のあいだ車の音を聞いていた。日没がきた————九時、十時、十一時、更に一時間が過ぎても————しるしとなる音はなかった。グリーンヘイには一軒しか家がなく、最終到達点であり、その向こうにはグリーンヒルの小さな村落を形づくる数軒の小屋しかなかった。それゆえ、ラショルム・ロードにつながる曲がりくねった小道からくる車の音は、必然的に、グリーンヘイへの訪問者を出迎えるよう告げ知らせるのである。そうした知らせは我々に届かなかった。真夜中が近かった。最後に、我々は一緒に、これだけ遅くなって、もう到着してもいいはずの一団に会えるのではないかと移動することにした。事実、我々みなが驚いたことに、すぐに出くわしたのだが、あまりにゆっくりと進んでいるので、近くに来るまで馬の脚の降りる音が聞こえなかったのだった。私はいまなお残る印象と当時の状況とを結びつけて語っている。最初に気づいたのは、陰になった小道の深い闇から馬の頭が突然現れてきたことだった。次に、白い枕の固まりがあり、それに瀕死の病人が寄りかかっていた。棺を運ぶのにも似た馬車のゆっくりとした歩調は、私の生において最も印象深く残っている葬儀の圧倒的な光景を思い起こさせた。しかし、子供の心には強く影響するこうした畏怖の要素は、病的な神経にあった私には、この特別な夏の夜のそれまでに経験したことに結びついて威厳をとどめているのだった。遠くの道から聞こえる生じては消え、捉えては失われる、空気を緩やかにかき乱す馬の蹄の音を何時間も聞き————日没数時間前特有の荘厳さ————終わりゆく日の栄光————父がそれまでいて、書かれたものによって私もよく知っていた、西インド諸島の日没の豪華さ————父がただ死ぬためにだけ帰ってくること————死という偉大な観念が私の若い悲しみに満ちた心に飾り立てた圧倒されるような物々しさ————それに対立するが死ほど神秘的ではない生の観念が、あたかも翼を得たかのように、熱帯の光と美しい花々のなかで、軽やかな羽毛や死すべき者の戦利品よりも荘重で哀愁に満ちているように思われる———これら絶えることのないイメージ、次々に連想される考えが、そうでなければ子供にとっては、一時的にカレンダーに赤で記して置くにふさわしいくらいの父の帰還の日を、私の夢において消し去ることのできない陰影に満ちた力をもったものにしたのだった。実際、これは、父のイメージが私にとって人格をもった現実となったただ一つの記念であった。それがなければ、彼は私にとって名のみの幻影でしかなかったであろう。実際には、父は数週間ソファの上でつらい日々を送った。この間、私の物静かな行儀作法からは自然なことだったが、父の起きているあいだ私が優先的に彼を訪れることになった。私はまた、父が生を終えるとき、想像上の訪問者とうわごとのような会話のなかで静かに言葉を漏らしていたときにも傍らにいた。


 私の兄は、予測することはほとんどできなかったが、実際に起きてみるとごく自然に思われる原因から異邦人なのだった。ごく幼いときから、彼は全く御しがたい人間であることがわかった。悪さにかけての才能には天性のものがあった。その方面にかけては神のごとき霊感があった。風雲に乗じ、嵐を導き、νεφεληγερετα Ζευζのように、雲を従えるユピテルのように貿易風をつくりだし、それを操ることができたのである。このほか他の理由もあって、彼はリンカンシアにあるラウスのグラマー・スクールに送られた————英国特有*の栄誉を形づくる数多くある古くからの古典的施設である。ここに閉じこめられ、最も厳しい名誉ある規則に戦いを挑むことは、当時のパブリックスクールの学生にとって必然的なことだった。それゆえ、こうした規則によって、優れた男らしさ、寛容さ、自制力を身につけ————また、あらゆる卑しさ、臆病さ、不正に一貫した敵意を示すようになる。クーパーは、その「Tyrocinium」で、我が偉大なるパブリックスクールを公平に判断するにはほど遠かった。その繊細な気質から、戦いによって収穫を得るには不向きであり、彼自身ウエストミンスターの経験によって多大な苦しみを被っていたので、公平な立場から判断を下すことができなかった。学校でも、社会でも、個人の生活においても、最も激しい情調を望むほど病んでいた私であっても、良心に従って私の票をパブリックスクールに入れざるを得ない(千回の機会があっても、そのすべてを投じるだろう)。

 

*1

*1:*「特有」————つまり、富裕で学費を払える者も、貧しく払えない者、あるいはそれほど多くは払えない者もともに行くことのできるよう基金によって設立されている。教育に関して古代から続くこの英国の公共事業のなかでも最も名誉に値するこの仕組みは————キリスト教国のいずれにおいてもまったく取り組まれたことのないものだが————一流の優れた階級を生みだし、彼らは英国をしばしば最も貴族的ではあるが、また多くの高貴な目的に基づいた最も民主的な国にしたのである。

ブラッドリー『論理学』88

 §31.あり得べき誤解のもとを取り除くよう努めてみよう。実際には、ある判断の否定は、常に判断そのものとは異なるなにかによって否定されることが主張されよう。かくして、例えば、「昨日は雨だった」は、雪が降っていた、あるいは晴れていたために間違いである。しかし、いずれにしても元々の判断とは異なる根拠によって否定されうる。「雨が降っていた」の二重否定の帰結は、「雪が降っていた」でも「晴れていた」でもあり得る。「雨が降っていた」に帰りつくためには、二重ではなく三重の否定が必要となろう。

 

 しかし、この反論は誤解に基づいている。「雨が降っていた」ということを否定するとき、私がそこになんらかの相反する性質を含意し、それを用いていることは完全に正しい。私の心のなかにあり、根拠としてもっているのが、「雪が降っていた」であったり「晴れていた」であったりするのも同様に真である。しかし、否定がそのどちらかに実際に拠っていると結論するのは間違いである。心に何を抱いていようと、あなたの否定が「雪が降っていた」か「晴れていた」のどちらかに委ねられていると無理に認めさせることのできるような論理はあり得ない。我々が否定において<用いる>のは<全面的な>相反ではない。我々の目的に答えてくれるのは部分的な相反である。否定が主張するのは、「雨が降っていた」という判断を排除するに十分なだけの性質が存在することである。この普遍的な「十分さ」は「雪が降っていた」にも「晴れていた」にもあり、<それは>「雨が降っていた」という判断では追い払うことのできないものである。別の言葉で言えば、「雨が降っていなかった」と言うと、すぐさま実定的な「なぜなら」に関わり合うことになるが、特定されない性質以外のものに関わっているわけではない。この性質の証拠は、最終的には矛盾する主張の存在に見いだされねばならないが、単なる矛盾は、なんらかの個別な相反を主張するものではない。それは単に<なんらかの>矛盾を主張し、「雨が降っていた」という判断によってのみそれを免れることができる。我々はここで再び、前に見た(第三章§19)否定の使用を不確かなものにする、恒常的な曖昧さを見いだすことになる。私が咎めたような誤りを犯すことなしにここで二重否定について扱うことは非常に困難でほとんど期待がもてないだろう。

 

 

幸田露伴「是は/\」

 質屋の佐野平に鹿鳴館から使いが来る。伺ってみると、貴婦人がいて、巨瀬金岡、古土佐、探幽応挙、容斎北斎などを気に入って七千円程度、千円だけ手付けにして取り置いてもらっているが、すでに日本で買い物をしすぎ、本国から送ってもらっているが、まだ一週間くらいかかる様子、その間には同じく目をつけたフランス人が即金で一万円払うといって、店のものも心が揺らいでいるよう、そこで世界でも四番目に大きいと言われているこのダイヤを質に入れ、利子も千円払うので、六千円貸してくれないかという話、雰囲気とあまりに大きな話に圧倒されて佐野平は貸してしまった。

 

 一晩たってみると、なにか煙に巻かれた感じがする。そこにあらわれたのが甥の理学士、ダイヤを見てこれは偽物だと喝破した。鹿鳴館に連絡をしても、すでに貴婦人はいない。仕方がないので、佐野平安く人造ダイヤを売り払い、新聞はこの事件を長々しく書き立てた。

 

 さて、一週間がたつと、かの貴婦人、供を引き連れ、七千円を持ってあらわれた。さあ質に入れた品物を返してもらいましょうと居丈高な様子、そこにぬっと出た佐野平理学士、質物をお返しします、七千円頂戴しましょう、これには是は是は、と帰らざるを得ない一行、新聞を使ってうまいこと騙りに対処したのだった。落語にありそうであり、いかに露伴が江戸の町人文化に親しんでいたかもあらわしている。

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈51

月は遅かれ牡丹ぬす人 杜國

 

 月は遅れ、いま少しでてくれるな、さて牡丹盗人となろうということである。前句を転じて、小三太に盃を取らせ、酔いをよそおいて戯れると見なしての付け句である。「月は遅かれ」の言葉づくり、何となく謡いめいて面白く、あるいはどの曲かにこの一句があるかどうはわからないが、いまは思いつかない。旧解、誤解うがち過ぎの解があることが多いが、わざわざ論じない。牡丹、菊などは花木のなかに特に培養の力で美しく咲き出るものなので、これを育てて大いに誇る者もあり、また欲しがっても惜しんで与えないものである。この句の牡丹盗人がただの盗人ではなく、盗んでいることを見られたとしても笑って済むくらいの格の人物であることは、自ずから句づくりに見える。それを見過ごして、飲酒しながら盗人を待つ様子だといったり、花盗人を咎めない主の寛い心のあらわれだといったような註がでるようになった。句の姿は幾度となく打ち直して句の心に応ずるようにつくってある。であるから、句の姿を熟視すれば、自ずから句の心が浮かびでて見えるだろう。

トマス・ド・クインシー『自叙伝』21

 第二章で、私はこの上なく優しい姉妹たちの間で育ったことに深甚の感謝をあらわしておいたが、「恐ろしく戦闘的な兄弟たち」には触れなかった。とにかく、私にはそうした兄弟がひとりいた。私よりも年上で、クラスで最も激しい性格をもっていた。彼については、すぐに読者に紹介しよう。しかし、この時点では、彼は私にとってもひとりの異邦人に過ぎなかった。奇妙に聞こえるだろうが、この時期、たまたま公道で行き合ったとしても、兄も父も親族として私の注意を引くことはなかったし、私が彼らの注意を引くこともなかった。


 父の場合、こうした事情は、私がこれまで生きてきた時間からすれば、非常に長い間海外で生活していたことからくる。まず彼は、数ヶ月の間ポルトガルリスボン、シントラに住み、次にマデイラ、それから西インド、時にジャマイカ、セント・キットと、肺病にいいと思われていた暖かい気候を求めていた。実際には、彼はしばしば英国に帰り、デヴォンシアの南の湯治場などで母と会っていた。しかし、幼かった私は、そうした遠出には連れて行かれなかった。そして、この時期、ついに、どうにもならないことがわかり、三十九歳にして、家族のなかで死ぬために父は戻ってきたのだった。母は、西インドの定期船が着く港で(どんな港かはともかく)彼の到着を待ちかまえていた。この時期に結びつく最も深い思い出は父がグリーンヘイに到着した夜のことである。

ブラッドリー『論理学』87

 §29.否定の否定が肯定である本当の根拠は、単に次のようなことにある。あらゆる否定において、我々は実定的な根拠をもっていなければならない。第二の否定における実定的な根拠は最初の否定によって否定された述部以外ではあり得ない。すでに<Aはbである>という確かな知識をもっていなければ、「Aはbではないというのは誤りである」と言うことはできない。そのことの根拠は、<他の>どんな知識も十分な根拠とはならないことに求められる。

 

 §30.簡単に説明してみよう。これまでのことから、Aがbではないという判断において、私がAにbとは相容れない性質を仮定していることはわかっている。それをyとしよう。私は自分の判断をいまでは否定したく思い、以前のように、新たな否定の根拠となるなんらかの性質を必要とする。bとは異なる性質を取り上げることとする。それは、yと相容れない性質zであり、我々の手に何が残されたか見てみよう。我々はbを排除するyを排除するAzを手にしている。しかし、これはどこにも我々を導かない。Aがbであるのか、あるいはbではないのかも区別がつかず、というのも、我々の知る限り、zはyがそうしたように、bを排除するかもしれないからである。結局、我々が得たのは「Aはbである」ことを否定する能力がないということである。しかし、我々が欲しているのはそうした否定が間違いであると主張するための客観的な根拠である。

 

 b以外のどんな性質をとっても同じ結果となる。bが不在ではないという唯一の確かな根拠は、bが存在していることを示すことにある。というのも、bの排除についての可能な根拠は無限にあり、bの否定を言い尽くそうとしてそれを無視することはできないからである。Aに関して可能性の数が選言判断によって既に制限されている場合にのみそうすることができる。そして、それはいま問題になっていることとは違う。

 

 例えば、我々が「究極的実在は知り得ない」という判断をもっており、この判断が間違いであることを主張したいと願っているとしよう。我々はそれが基づいている根拠を明らかにし、その根拠が妥当ではないことを示そうとする。間違いなく、我々のやり方は立派なものだが、それが与えてくれるのは元々の判断を疑い、それが基づいている根拠の真実性を否定する権利である。我々が元々の判断を<否定する>ことを望むなら、敵対者を退けることでそうはできない。実在が知りうるもの<である>ことを我々自ら示さねばならない。「Aはb<でない>」ことを否定する根拠は、「Aはb<である>」ことになければならない。

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈50

小三太に盃取らせ一ッうたひ 芭蕉

 

 小三太は特定の人物の名ではない。ただその人柄をあらわすだけの仮の名である。旧註には、扈従の童であるとか子供だとしてある。主従のちぎりが深く、頼み頼まれる関係の侍などであろう。一句は前句を受けて、明日を必死の一戦と覚悟した最後の晩の名残の酒宴のおもむきである。織田信長桶狭間の戦いの前に、人間わずか五十年と謡ったような面影が見え、謡には余裕のあるさまが見え、しかも凜たる様子もあらわれ、非常に潔く壮烈な様である。水攻めにあった高松の城、殺気を深く秘めた西條山、みなこうした光景があった。つけ句には承けると転じると流すとある。承ける句はややもすれば前句の奴婢となり注釈のようであり、一句の独立の美がなく、見苦しいものになるが、この句は素直に承けて、しかも面白い情景があり、出来事を述べただけで、前句と呼応して気味が通じ、精神がよくその情景を映しだす。けだし芭蕉にとっては易々たることだが、後人には及びがたいものだろう。