ブラッドリー『仮象と実在』 104

   ... [目的を実現することの失敗としての悪。]

 

 II.無駄、失敗、混乱としての悪を考えてみよう。世界の大部分は偶然の戯れである。自然と我々の生は、一つのことが実現されるときには、百ものことが失敗に終る闘争の場を示している。これは古くからの不満の種であるが、それに対立する疑いに答えが見いだされる。自然には目的といったものが実際に存在するのだろうか。もしないなら、明らかに、いま我々が考えているような意味での悪は存在しない。しかし、この疑問についての議論は、自然がなにを意味するのかなんらかの理解を得るまで先延ばししなければならない。※1現在のところ、自然に目的があるという見解と、それが失敗するいう反論を認めよう。この反論は処理がさほど困難ではないと思われる。失敗した目的というのは、我々自身によって選択された、多かれ少なかれ誤りに満ちた目的である。それらはあまりに部分的であり、もしそれを相対化するようなより広範囲にわたる目的を採れば、失敗であることを止めるだろう。つまり、より広い計画において役立ち、そこで実現される。誤りについて言ったことが悪についても当てはまる。それが従属するようなより高次の真実においては悪は失われ、消え去るのである。自然においても人間の生においても、部分的な目的について、同じ原理が当てはまる。我々の一致させることのできない観念や存在、その不調和を我々は悪と呼ぶ。しかし、その二つの側面を拡大し、それぞれをより広く採れば、両者は共存することになろう。もちろん、すべての有限な目的がそうして実現されると言いたいわけではない。存在と一致したより広い観念において悪が失われ、一要素となるといっているのである。誤りと同じく、我々の一面性、固執、失望がすべてなんらかの形で調和に従い、完成に向かう。観念と存在の諸側面は大きな全体のなかで統一され、そこでは、悪や、目的でさえも消え去ってしまう。この完成を検証すること、細部においてどうやって可能であるかを見ることは同じく不可能である。にもかかわらず、こうした完成は一般的な観念においては理解されるものであるし可能である。絶対は完成したものであるから、こうした調和も存在しなければならない。可能で必然的であるなら、それを実在と考えざるを得ない。

 

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*1:※1自然の目的という疑問については、第二十二章、二十六章を参照。