ケネス・バーク『宗教の修辞学』 6

第四のアナロジー

 

 第四のアナロジー弁証法は、第三のものと緊密に絡み合っているので、別々に扱うことは難しい。そこで、両者を含む例を使うことによって、第三から第四のアナロジーへの移行を示してみよう。

 

 そのもっとも厳密な意味における実在の世界、物質的事物とその働きの世界を想像してみよう。徐々にそこにあるカテゴリーは広がっていくことになる。たとえば、この木からすべての木へ、すべての木からすべての成長するものへ、すべての成長するものからすべての対象へ、等々。最終的に、実在する全領域を含むものとして、それらがすべて互いに影響しあっていることに着目し、この自然の領域を要約して、それを「条件づけられた」領域と言うことができる。こうした高度に一般化された用語を手にしたとすると、否定的なものの観点からすると、なにが残されているだろうか。単純な弁証法に従えば、「条件づけられたもの」は同じく高度に一般化された仲間である「条件づけられていないもの」をもっているのは明らかである。同様の手順に従い、条件づけられたものが必然性の領域なら、条件づけられていないものは自由の領域にあるだろう。条件づけられたものが手段の領域なら、条件づけられていないものは目的の領域にある。条件づけられたものが「感覚可能」なもの(現象)の領域なら、条件づけられていないものは「理解されるもの」(物本体)の領域である。条件づけられたものが互いに関係する事物の領域なら、条件づけられていないものは物自体の領域だろう(カントによって用いられた半実在物で、フィヒテは、カントの物自体をseiendes Unding、物でない存在と呼ぶことでその否定性を明らかにした)。

 

 第四のアナロジーは、名称の名称へと赴く言語的衝動、永久に高次な一般化の秩序に登りつめていく名称化の論理を含んでいる。プラトンの対話では、こうした抽象的なものへ向かう運動は、単なる自然主義的な実証の領域、感覚的経験の対象から離れ、神的なものへ向かう運動と同一視された。

 

 ある本の理想的な題名を想像してみよう。理想的題名はその本の特徴をすべて「要約している」だろう。ある意味、そうした特徴を「含んでいる」こととなろう。しかし、各特徴はすべて物質的な現実を有しているだろう。同様に、名称の名称へと向かう運動もあろう(「名称」をそれぞれの状況に当てはめて考えれば、一つの文のうちにも統合化の原理を見いだすことができる)。そうした運動は、否定を介した空虚化の一種である。(かくして、ヘーゲルの主張を思い返してみれば、この存在からあの存在、また別の存在と次々に「純粋な存在」を得るまで続けていくと、そうした「純粋存在」は、その例証としてなに一つ指摘できるものがないゆえに、「無」と区別することができない。ハイデガーによる無が存在の文脈による対応物、あるいは存在の「地」であることを思い起こそう。)

 

 第四のアナロジーでの重点は、この否定的要素ではなく、名称の名称、全体的な語を見いだそうとする傾向にある(否定的原理がこの特徴の本質的な部分であることは理解される)。第三のアナロジーと第四のアナロジーを別々に扱うことができる限り、第三のアナロジーは言語における否定性と否定神学において言語の否定性が占める場所の関係に関わり、第四のアナロジーは世俗的な領域から包括的な名称の名称へと向かう、名称化の過程をたどる言語の本質に関わっている。こうした世俗的な要約の語を、神学者が神性という語でもってすべてを包括する役割を果たさせるのに対応するものとして、専門的用語として「神語」とすることができよう。*

 

 

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 この第四のアナロジーは反対の方向から見ることもできる。つまり、「神」をすべてが要約される名称の名称と見る代わりに、すべての下位クラスをこの「精神的源泉」から物質的に「発散」あるいは「放射する」ものと見ることができる。宗教は中心にあると見ることができ、法、政治、倫理、詩、芸術等々の専門的領域はそこから「別れ」、次第に「自立的な」分野となっていったのであるから、厳密な意味において、あらゆる特殊化はロゴロジカルな中心から放射されたものとして扱うことができる。あらゆる学問、学説は言語によって導かれるという意味で、ロゴロジーはまさしく中心にあり、そこからすべての学問分野が「放射している」のだと言うことができる。それらはみな特殊な方言である(物理化学という特殊な領域における、社会科学や人文科学における)。

 

 しかしながら、この理想的な学科を大学の教科課程の中心をしめるものと考えることは、こうした「派生」を文字通りに受け取ることと同じではない。現実には、教科課程は時間を通じて発展してゆき、その蓄積は歴史的であって、ロゴロジー的ではない。もし我々が宇宙の代わりに大学を置き、ロゴロジーを大学の中心にして周縁を占めるものだとすれば(「神」が宇宙の中心にして周縁だと呼ばれるように)、この源泉からの教科課程の「派生」は、学問的な姿勢や教育政策を形成するには重要であり得る純粋に図式的で、純粋に理論的な、「理想的な」派生ではあるが、文字通り「想像を超えたもの」となろう。ロゴロジーは、理想的な中心にあるべきなのだが、実際には他の教科と同様に特殊な専門教科に過ぎないという意味においても神学と類似している。

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*歴史をさかのぼれば、作品の始まりの言葉を表題とすることがしばしばあった。このような「始まり」には、「本質」が時間的優先権をもって述べられるという後に明らかになるような考え方があったに違いない。

 これに関連する難問がある。『動機の文法』(カリフォルニア大学出版1969年)において、私は五個一組の用語を提示した。行為、場面、行為者、働き、目的である。一見したところ、それらはみな「実在的な」用語に思われる————そして、しっかりとこの問題を考えることなく、そう受け取っていた。というのも、それらは論理的な対立物を含むような語ではないからである。しかし、後に、それらは「極性のある」ものではないが、かといって、単に「実在的な」ものでもないことを理解するようになった。それらは実際には問いかけと言えるものである。行為によって意味されるのは「なにがなされたか」であり、場面によって意味されるのは、「いかなる状況でそれはなされたか」である、等々。かくして、それらは実際には満たされるべき空欄である。算数ではなく代数である。ある特定の動機に基づいて空欄を埋める個々の特殊な答えとは関係なく、それらの語の働きは相互の関係として分析することができる。