ケネス・バーク「純粋な」文学の三人の達人【『反対陳述』から』 1
Ⅰ
五十年ほど書簡を書き続けた後で、フローベルが初めてバルザックの手紙を見たとき、嫌悪感を抱いたのも当然だった。この人物は――少なくともフローベルの考え方によれば――この世界で最も栄誉ある職業に従事していたのだが、私信には芸術のことなどまったく触れられていなかった。フローベルに顕著な一般的なものへの愛情が完全に欠けていた。代わりに重要とされているのは、些細な個人的貸し借りだった。バルザックにとって小説とは、政治や株式売買と同じ働きをするものだった。それなりの社会的地位を得て、パリの有名人になるためのものだった。
フローベルは常に芸術を自律的な存在と見なしていた。「L'art est assez vaste pour occuper tout un homme」と彼は手間のいらない生き方によって満足を得ている友人に書き送った。シェイクスピアに彼は「一人の人間ではなく、一つの大陸」を見た。芸術家はある扉を閉める代わりに別の扉を開け、芸術家でないものには理解されないなにかを掴むのだと感じていたようである。フローベルは、彼なりの分厚く柄の大きな仕方においてではあるが、象牙の塔一派の作家だった。芸術とはシェイクスピアのように、一つの大陸のように、そこに住むべきものである。九歳のときに書かれた最初の手紙で、彼は喜劇を書くことについて語っている。次は小説について、三番目のものは「歴史」に言及されている。最初の手紙はまた新年の愚かさについて語っており、それがおよそ六年にわたる文通の要旨ともなっている。フローベルは1821年に生れた。1835年までには、ギュスタヴ・アントゥオスコティ・コクロットという筆名をもっていた。
我々は非常によく記録された思春期へと入る。もししばしば言われているように、誰でもが子供のときには芸術家であるとするなら、誰でもが思春期には芸術家の気質を持っていることはより真実である。報復の意味も含めて、早熟ではないのみならず、子ども時代には愚かだとさえ思われていたフローベルのような芸術家の思春期を研究すると、よく踏みならされた迷宮に入り込んだことに気づく。その諸相は次のように数え上げることができよう。
a)悪逆の崇拝。(「また、私はネロを尊敬します。彼は古代世界でも頂点に達した人物です。スエトニウスを読んでおののかないような者には災いあれ。最近私はプルタルコスでヘリオガバルスの伝記を読んでいます。彼はネロとは違った美しさを持っています。かれはよりアジア的で、より熱っぽく、よりロマンティックで、より軛から自由です。彼は日の暮れ方です。松明の譫妄です。しかしネロはより静謐で、より美しく、より古代的で、より釣り合いが取れており、つまり、より優れています。」)
b)分析のシニシズム(「私は絶え間なく解剖します。それは楽しみを与えてくれます。最終的に、純粋だと思われていたものの腐敗を、愛らしいと感じられていた箇所の壊疽をあらわにすると、私は顔を上げ、笑います。」)
c)放漫、欲求不満、断念。(「ああ、どれだけ私はより愚かなこと、あるいはより賢明なこと、無神論や神秘主義、完全で全体的なもの、独自性、つまりなにかに身を捧げることでしょう。」或は、「子どもの頃私は栄光を夢見ていましたが、いまでは平凡であることの誇りさえもっていません・・・書くことで、私はそれらをすべて断念したのです。」)
d)溢れんばかりの着想、話すことへの陶酔、充実への愛。(「私は大量の慰み、大騒ぎ、激しい行動を欲し、我々が話し合い、意気高揚したり、笑い合ったりするとき、会話が歩き、走り、跳ねまわるように、すべてが秩序なく、スタイルもなしに、乱雑に積みかさねられていることを望みます。」)
e)逃避。(「ああ、もし私がガンジス川のほとりに蘆と竹でできた小屋をもっていたなら、一晩中流れてくる水の音と、黄色い木にとまった鳥たちの囀りを聞いているだろうに。」哀れなエンマ・ボヴァリーが後に苦しむことになるノスタルジアである。)
f)精神異常。(「二三日前、私は物乞いをする三人の哀れな白痴に会いました。彼らは見るも恐ろしく、醜さとクレチン病とで胸が悪くなりました。彼らは話すことができません。歩くのもやっとです。私を見て彼らは自分たちが私を愛しているという身振りをし始めました。彼らは微笑み、顔に手をやり、投げキッスをしました。私の父はポンレヴェクに農場を持っており、その管理人の娘は精神薄弱です。初めて彼女が私を見たとき、彼女もまた奇妙な愛着を示しました。私は動物と精神異常者を引きつける力があります。」また、初期の『狂人の回想』を思い起こしてもいい。)
これは誰の思春期にでもあるものではない。確かに、思春期には打ちのめされ認められる場合と、打ちのめされ認められない場合とがある。数年で分別を持ち、そこから逃れる者もいる。多かれ少なかれ陰鬱である芸術家は思春期の経験をいつまでも手放さない。いずれにしろ、フローベルはそれ以上には進まなかった。彼の作品はこうした要素を洗練し、微妙にしたものである。
盛んな意気と断念とは、時とともに、辛抱強く最小限にまで押さえ込まれた。1845年に、おそらく少々性急にではあるが、「私はいまでは滅多に笑わず、もはや不幸でもないことに気づきました。私は大人になったのです」と書いた。これはある種フローベルの精神的なポツダム宣言だった。『聖アントニウスの誘惑』の後、彼の方法は次第に慎重なものとなり、『ブヴァールとペシュケ』を書く際には、一冊の本を産みだすのに千五百冊の本を読んでいる。「もっと冷淡に書かねばなりません」と彼は無視されることの多い愛人であり、フローベルが最も嫌ったド・ミュッセの讃仰者でもあるルイーズ・コレに助言している。霊感と呼ばれる暖かさを厭い、神経質な感情が筋肉よりも目立たないようにしなければなりません。」しかしながら、この「詩的な」仕事のやり方に対する嫌悪感は、彼の関心の背景にあるものを変えはせず、それらは思春期の暖かさを保ち続けた。芸術は「厳しい方法意識と物理科学の厳正さ」を持つべきだという彼の主張には、ほとんど検閲官の素朴な楽しみが見られる。例えば、『サランボー』を書いているとき、彼はド・グールモンにこう書き送った、「Ainsi je suis parvenu dans le meme chapitre a amener successivement une pluie de m-(sic) et une procession de pederastes」と。
しかしながら、フローベルの問題を引き起こす材料は、我知らず読者の関心をつなぎとめておこうとする本能的な要求から来ている可能性もある。いずれにしろ、彼がまさしくそうした方法によって公的評価を得たのは確かである。『ボヴァリー夫人』は、その技術的形式の勝利や顕微鏡で覗いたかのようなスタイルによって世評に上るようなことはほとんどなかった。猥褻だと告発されることで評判になったのである。同じように、『サランボー』はそこに含まれる異教主義によって考古学者やモラリストの間に怒りを引き起こした。『聖アントニウスの誘惑』は著者に反対する説教が行なわれる機会をつくったし、『感情教育』は政治的な問題の扱いがあまりに大胆だったので、百五十人の人間に贈呈したのに、返事を寄こしたのは三十人だけだった。・・・かくして我々は、実際にはその読者の誰にも気づかれることのないような――完全に非物質的な――細部に深く関心を抱いている人物が、純粋に非本質的な理由によって、学問的な卓越性を認められているという現象に直面する。
思春期と公的な作家としての一歩を踏みだすまでの間に、フローベルには試行錯誤の時期があり、近東への最初の旅行がなされた。過ち、巨大な廃墟、人間の集団による人間の集団に対する虐待、売春、腐敗。我々はこうした事柄に対する彼の好みを認め、その好みは後に『サランボー』において正当な場を占めることになるが、この時期彼の最も印象深い手紙がナイルから書き送られ、そこでは歴史がフローベルに特徴的な手続きによって微細に思い描かれ、巨大なるものによって祝われている。フランスに帰って彼は『聖アントニウスの誘惑』の初稿を書き、それから『ボヴァリー夫人』を始めた。このとき以来、彼は単調な生活にきっぱりと身を落ち着け、芸術家は「ブルジョアとして生活し、半神半人として思考」するものであり、芸術こそ生において最も重要なことであると見なすことで自らの必要を満たした。彼は「一章を完成する」まで何ヶ月もルイーズ・コレに会うことを引き延ばし、彼女があまりにしつこくなると完全に捨て去った。1870年頃まで、どんな出来事があっても彼のこの姿勢に目立った変化をもたらしはしなかった。しかしながら、普仏戦争のときから、彼ははっきりとより不機嫌になり、ときにはけんかっ早くさえなった。一人一人友人たちは死に、老いの感覚とともに孤独のうちに残され、自らを犠牲にして捧げていた理想はいまや完全に裏切られていた。頑健な体質も失われた。頭痛と吐き気に苦しんだ。1880年、彼が払った厖大な労力のなかでも最も厖大な力をもって取り組んだ『ブヴァールとペシュケ』を書いている最中に、卒中によって突然に死んだ。