ブラッドリー『仮象と実在』 230

第二十七章 究極的な疑問

 

[我々の結論は可能なのか。]

 

 未熟ではあるが、この作品を終わるときが来た。どれほど、またどういう意味合いで我々は主要な結論を確かなものとして扱う自由をもつだろうかと問うことで結論としよう。我々は実在が一であること、それが本質的に経験であること、そして快の均衡をもっていることを見いだした、.あらわれなしには全体にはなにも存在せず、あらわれのあらゆる断片が全体を性質づける。他方において、それらを一緒にすると、あらわれそのものは消滅する。宇宙のなにものも失われることはあり得ず、なにものも単一の実在に寄与することはできないが、あらゆる有限の多様性は補われ、変容される。絶対においてあらゆるものはそれ自体のために存在している。その私的性格は残るが、補足や付加によって中立的なものになる。それゆえ、最終的には何ものも単にそれ自体で在ることはできないので、最終的にはどんなあらわれもそれ自体として実在であることはできない。しかし、あらわれは多様な程度において実在になることに失敗する。全体のなかのひとつが別のものと同じように価値があると主張することは根本的に誤りである。