C・S・パース『科学の論理について』 5

 科学の非心理学的概念を採用する幾つかの理由が挙げられたので、この概念を十分に明確なものとし、論理の定義に役立てることとしよう。この目的のためには、ロゴスを抽象的なものから具体的なものへ、絶対的なものから従属的なものにしなければならない。絶対的なものの科学は存在しない。形而上学的ロゴスは我々には形而上学的魂あるいは形而上学的物質以上のものではない。絶対的観念あるいはロゴスには、従属的あるいは相関的言葉が対応している。という語は、それが書かれず、言われず、考えられないにしても、存在する語と考えられる。それが思考されているものと考えられねばならないのは確かである。しかし、それを語と見て取るのと同じ精神によって考えられる必要はない。私はそれをはっきりと発音することも、それがどんなものか推測さえつかないが、フィジーの言葉で考えることができる。抽象的ではあるが絶対的ではないこうした言葉は、同じ意味をもつあらゆるシンボルの類でしかない。あらゆる意味の言葉を含むより高次の類を考えることもできる。最初の定義の試みとしては、論理とは、心的なものであれ物質的なものであれ、一般的表象の学だと言えるだろう。この定義はロックのものと一致する。しかしながら、論理はあらゆる種類の表象を扱うわけではないので、広すぎる定義だ。たとえば、対象とその絵との相似は論理的真理ではない。それゆえ、対象と一致する異なったあり方に応じて、表象の種類を分ける必要がある。真理の第一にしてもっとも単純なものは、写しによる相似である。おおざっぱには、述語が同じであることにあると言えるかもしれない。ライプニッツなら、それを極限まで推し進めると、同一性となって自己破壊を起こすというだろう。それが正しいかどうかはともかく、すべての知られる類似には限度がある。つまり、類似とは常に部分的真理である。他方、いかなる点でも似ているところがないほど異なっているものは存在しない。夢は逆夢ということわざで想定されるような場合だが、具体的なものには相反するところなどないので、不条理な考えである。間違った写しとは、似ていない対象に似ていると主張するものである。しかし、こうしたことは、二つの理由から完全な形で生じることはない。第一に、間違いというのは写しそのものにあるのではなく、たとえば上書きのように、それによって主張されているものにある。第二に、写しと対象の間には何らかの相似はあるはずだから、間違いは完全なものとはなり得ない。それゆえ、写しには完全な真も完全な偽も存在しない。さて、我々が排中律の法則によってアポステリオリに知るように、論理的表象には絶対的な真と偽がある。それゆえ、論理学は写しを扱わない。