ブラッドリー『論理学』 7

[間違った考え方の批判。判断は「連合」ではない。13-14]

 

 II.§13.判断についての誤った理論は自然に二つの種類に分けられ、一つは主語、述語、繋辞に対する迷信によって理論が損われるもので、他方は別の欠点による。二番目のものを最初に取り上げよう。

 

 (i)判断は観念と感覚の連合でも観念や諸観念の勢いや強さでもない。これまで経てきたことを考えるなら、こうした考え方を詳細に調べる必要はない。彼らが語る観念は心的な出来事だが、判断は、既に見てきたように意味に関わる普遍的な観念内容であり、心的な事実でないのは確かである。我々にあるのが現象の関係、感覚と隣接あるいは結びついた心的イメージだけなら、どんな主張も否定も真や偽ももつことはできない。我々にあるのはそこに<ある>、なにものもあらわさない現実だけであり、それは存在はしても<真>となる可能性はない。

 

 我々は「連合」についての一般的な議論を先取りはせず(第二巻第二部第一章)、この学派がもつ普遍についての途方もない考え方に移ろう。すぐにその結論にたどり着くだろう。特殊なイメージという意味での観念があり、それはある仕方で感覚に結合し縛りつけられている。例えば、私は色のついた点々の感覚をもつ。動き、堅さ、重さのイメージがそうした感覚によって「呼びだされ」、それに結びつき一体となる。これは我々がある難点を呈示するまでは非常にうまくいっているように思える。一個のオレンジは我々に視覚的感覚を与え、我々はそれにいま述べたようなイメージをつけ加える。しかし、そのそれぞれのイメージは堅固な個物であり、他のあらゆるものを排除した関係によって性質づけられている。単にそれらの事実の束を<連合する>なら、誰がそれを一つの事実として認めるのだろうか。その内容を混合し、存在のことは無視して、それぞれの性質の一部をとり、<それを>対象に移すのだとしたら、その過程をなんと呼ぼうが勝手だが、それが連合では<ない>ことは確かである。(以下、第二巻を見よ。)

 

 観念がどのようにか感覚に結びついていると仮定したとしても、判断は、真や偽はどこにあるのだろうか。オレンジは私の感覚や想像の前にある。私の心にはそれは存在し、それで終りである。あるいは「シーザーは腹を立てるだろう」と言ったとする。シーザーはここでは知覚であり、それが性質づけられて「シーザーの立腹」となる。しかし、このイメージは単にそう存在するものであり、なにをあらわすわけではなく、なにも意味することができない。

 

 まず「観念」が一つの事実として自律し、感覚の事実と心的な関係をもっていると仮定してみよう。二つの現象は、頭痛が三段論法と共存できるように共存している。しかし、そうした心的な結合は主張というには程遠い。ここに肯定は存在しない。肯定すべきなにがあるだろうか。二つの事実の関係を肯定するのだろうか。しかし、それは与えられたものであり、肯定するにしても否定するにしても意味がないだろう。*一方の事実が他方の事実の賓辞となるのだろうか。それはまったく理解できないように思える。端的に言って、感覚と観念の双方が事実ならば、我々はなんの肯定も見いだせないばかりでなく、肯定すべきなにがあるのかさえ解らないだろう。

 

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 次に、(連合そのものはあきらめることとし)「観念」そのものは姿を消し、その不完全な内容が感覚のなかに溶け込んでいるのだと仮定してみよう。この場合、混合によって生みだされた全体は私の心に単体のあらわれとしてやってくる。しかし、どこに肯定が、真や偽があるのだろうか。ありのままのあらわれのうちにあるとは言うことができない。我々はこのあらわれと他のなにものかの関係のうちのどこかにそれを見いださねばならない。その関係が判断が指し示すものとなろう。しかし、いまのところは、その何ものかも判断が指し示すものも存在しない。我々が最初にもつのは変更されていない感覚、次に変更された感覚である。

 

 先に進む唯一の道は、まず、「観念」が自律し、その内容と区別されると仮定する。次に、その両者が感覚と区別されると仮定することにある。すると、我々は感覚とイメージという二つの事実と、それ以外にイメージとは異なる内容をもつことになる。こうして我々は判断が可能になる条件にたどり着くことになるが、この条件への到達は連合によっては説明できない。またそれ以上の段階を考えることもできない。イメージから感覚への内容の移動と感覚の主語としての性質づけがあるが、そのどちらも説明することができないだろう。つけ加えるなら、どんな判断においても感覚を主語として役立てることは不可能である(以下の第二章を見よ)。最後に、私の行為が結びつけ、結びつけられる意識とは我々が考えているような心理学とは両立しない事実なのである。(18)要約すれば、イメージの内容を変更されたあらわれのうちに溶け込ませることは判断に向けての一歩ではあるが、連合を離れることになる非常に大きな一歩でもある。心的現象の結合や統一は判断で<ない>ばかりでなく、その初歩的な基礎としても役に立たないだろう。*

 

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§14.しかし、定義とは「<活き活きとした>観念が現にある印象と連合すること」だと言われており、<活き活き>ということはなんの関わりもないのか、と尋ねられるだろう。みじんも関係がない、と私は答える。真であれ偽であれそれはまったく関わりがない。活きのよさは我々が述べてきた反論をなにひとつ取り除くものではない。好きなだけ活き活きしたものをとったとしても、それは単なるあらわれであり、判断は存在しない。観念の活きのよさは判断で<ない>ばかりでなく、その条件でさえない。真だと判断された観念はそう判断されなかった観念より強いものでなければ<ならない>という教義は、現実の現象との直面に耐えられないだろう。観念の強さを感覚に引けをとらないまでに強めることはできるが、そこに判断は存在しない。混ざりもののない事実が自身で声高に語っているので、この点について論じることはしないが、一つ例を挙げよう。我々はかつて同居していた人物のイメージをその人物が死んでからももつことがある。そうしたイメージは、ほとんどの場合微かなものであるが、その強さと独特な感じが我々の見ていない部屋の片隅に実際にあるように感じられて悩まされることもある。異常な状態では、そうしたイメージは幻覚となり、眼前に実際の知覚対象としてあらわれることがあるのはよく知られている。しかし、教育を受けた人間ならそれを幻影だと認め、弱く普通のイメージが我々の心にしか存在しないと判断されるように、外にある実在だとは判断しないだろう。だが、現在の印象と連合した活き活きとした観念、それをここで得ないとするなら、それはどこにあるのだろう。



*1:*この考え方によれば、ある誤りの否定は<そのこと自体によって>誤りでなければならないということになる。

*2:(18)「最後に・・・」注10を見よ。

*3:*ヒュームの信念の理論では、想像と現実、真実と誤りとの区別を<つける>ことができず、どうして我々がこうした区別を<つけている>のか理解することができない、ということがしばしば言われてきた。J・S・ミルは、非常に率直に、伝統的な教義は完全に破綻してしまったと告白した。彼は、どういうわけか、主要な点の完全な破綻というのが自分の学派の教義には関わりがない奇妙な事実以上のものではないと考えていたようである。彼が自分の失敗の真の原因を見ることは不可能だった。ベイン教授の見解については以下で扱うこととなろう。