C・S・パース「科学の論理について」 10

 この不完全なデータについての考察は、根本的な観察へと我々を導く。つまり、いかに我々は帰納をなし得るかという問題は、いかに我々は根拠をもって一般的な言明をなし得るかという問題とまったく同じものである。というのも、そうした言明は帰納によるかあるいは純粋な作り事でなければ発し得ないからである。大前提をデータと想定するようなたぐいは問題解決の試みから即座に取り除かれる。こうした説明は、我々はある演繹によって一般的な言明に到達できることを示しているだけであって、真の問題は触れぬままに残されている。アリストテレスの理論に特有の長所とは、反論しうるものを取り除き、確実性を得るにはまったく無力なものや帰納による推論の蓋然性しか残されていないにしても、実際の過程がどうなっているかを示す形式が残っているからである。

 

 この過程とは何であろうか。我々は法外な数の観察によって、たとえば、多くの動物————つまり、牛と鹿が植物を食べるという必然的結論を得る。この命題はいかなる一般性をもつ必要もない。もしあらゆるではなく、観察された動物が非常に多様で、それらが草食動物蹄が分かれているということ以外知らないとしても、議論の結果は避けられないものとなろう。このデータに加え、別の要素もある。つまり、それら同じ動物はみな蹄が分かれているということである。そこで、あらゆる蹄が分かれた動物は草食動物であるというのはさほど奇妙なことではないことになろう。非常によく似た特殊な構造をもつ動物は特殊な食物を摂っているだろう。もしこれが実際にそうなら、結論がどんなに驚くべきものでも説明される。何らかの形で受け入れねばならない驚異を避けるためには、まったく不確実であるにもかかわらず、信じるに容易なことを信じることに追いやられる。

 

 アリストテレスによって与えられた帰納の形式以外にも、これまで気づかれていないように思える二つの形式が存在する。第一のものは、例に従って示せば、どんな食肉動物も蹄が分かれていないというもので、これは単なる形式の相違だろう。第二は、牛と鹿が蹄が分かれていると観察されることは、草食動物だとわかることと同一ではなく、それらの同一性は単に性格の同一で観察の同一ではないというものである。これらの形式の論理的性格は本質的にはアリストテレスの形式と同じである。相違は、アリストテレスのものが第一格の三段論法の大前提から推論されているのに対し、これらは第二格や第三格の三段論法の大前提から推論されていることである。第一格の三段論法は前提の一つが主語となり、他方が述語となるような中間項をもつことに特徴がある。第二格の三段論法は、二つの前提の述語となるような中間項をもつ。第三格の三段論法は、二つの前提の主語となるような中間項をもつ。このとき、帰納は、一般的に、大前提についての推論である。

 

 還元的でも帰納的でもないような推論の大きな部分がある。結果から原因を推論することや物理学的仮定についての論究である。私はこれをアポステリオリな論究と呼ぶ。もし私が、ある振る舞いを賢いものとし、なぜならそれが賢いもののみがもつ性格をもっているからだというなら、私はアプリオリに論究している。もし私が、かつてそれが賢いことだとわかったから賢いと考える、つまり、あのとき賢いことであったから、今回も賢いことだと考えると推論するなら、私は帰納的に考えている。しかし、もし私が、賢い人がそうするからこれは賢い、彼は賢いから彼はそうするのだと純粋な仮定をするなら、私はアポステリオリに考えている。この論究がとる形式は、どの格によるものであれ、小前提に関する推論である。次のような例がある。

 

  光には干渉による縞がある。      エーテルの波はある種の縞を産む。

  エーテルの波はある種の縞を産む。   光はエーテルの波である。

 ∴光はエーテルの波である。      ∴光は干渉による縞を産む。

 

こうした推論形式の全体は表によってわかりやすくなろう。[渡す。]

 

 アプリオリアポステリオリ帰納という言葉について言えば、この区別そのものが慣例に合っていないという単純な理由によって、慣例的なものでないことを告白しよう。しかし、この慣例は言葉の元々の厳密な意味に固有なものであると装っており、私はこの元々の意味なるものが、私がこの言葉に与える非常に異なった有用な定義を正当化するに十分であることを否定し、主張する。これ以後私は、アプリオリな概念や原理を一方ではカント哲学と他方では経験的考察ともっとも厳密な仕方で調和するものであることを示すが、実際、観念論と経験論が互いを理解することができるのはこの道だけなのである。

 

 推論の種類についての更なる議論では次の二点が残されている。第一に、これら推論の種類は本当にまったく異なっているのか、第二に、それぞれの合理的根拠とはなにか、である。

 

 三種類の推論の一般的な性格の相違は顕著である。論理上の必然はアプリオリに推論され、アポステリオリに先立ち、それらを結びつけるのが帰納である。これらの相違は互いを変化させることはないのか、まったく同じ推論が帰納的でかつアポステリオリであることはないのか、というのが問題である。たとえば、ここに帰納的推論がある。私はそれを演繹的にあらわす。

 

木星位置はすべて楕円上にある

それらの位置は木星位置である。

それらの位置は楕円上にある。

 

そして我々はまた、アポステリオリな次のような推論をおこなうこともできる。

 

  この楕円上を動くものはなんでもこれらの諸点を通過する

  木星この楕円上を動く

  木星これらの諸点を通過する

 

これらの推論はほとんど同じように見える。しかし、本質的な相違があり、帰納的な推論は更なる制限に対峙することなく、木星楕円に限定し、アポステリオリな推論は更なる拡張に対峙することなく、楕円まで木星の運動を拡張する

 

【パースはもっとたくさん訳したはずなのだが、コンピューターを変えているうちにどこかに紛失したのか、見当たらない。どちらにしろ、ゴリゴリの論理学は元々歯が立たないので、放っておくことにする。】