ブラッドリー『論理学』55

 §80.しかし、我々がより低次の見方にとどまるなら、判断の真理を精査することに同意しないなら、個的な事実に関する主張をそのまま受け入れるつもりなら、その場合我々の結論は違ってくるだろう。抽象的判断はすべて仮言的となるだろうが、知覚に与えられたものを分析する判断はすべて定言的となろう。知覚を超えた時間や空間についての総合判断はその中間に位置することになろう。それらは普遍の強さについての推論を含み、その限りで仮言的な性格をもつに違いない。それらはまた厄介な仮定を含み、知覚と観念との概念内容の要素に同一性を認めねばならないだろう。この仮定が強力であれば、普遍は所与と関わりをもち、「もし」が「なぜなら」に変わり、総合判断は定言判断と呼ばれることになろう。この二つの判断のクラスは一方が個的な事実に関する、他方が抽象的あるいは性質に関する主張であることとなろう。後者が仮言的で前者が定言的である。

 

 §81.そろそろ空間や時間における現象ではない個的なものに関する判断について考慮するのをやめる時期である(§41)。結局我々は仮言的でないような判断を手に入れることができたのだろうか。個的な実在に直接に属性を示すような判断が、本当に真にそうしたものだと言えるのだろうか。そこでは、諸要素の実際の存在を主張し、誤りではない陳述を見いだすことができたろうか。定言的に真であるものとは最終的には、「自己は実在である」あるいは「現象は魂の魂に対するあらわれを越えるものではない」といった判断に発見されるのだろうか。実際にもしそうなら奇妙なことに思われるだろうし、結局本当に奇妙なのは我々の心だということになろう。

 

 しかし、ここではこうした問題に答えることはできない。定言的に真であるものがどこにあるのか「ここにあるのか、あるいはどこにもないのか」を尋ねてから始めてそれには答えることができる。