トマス・ド・クインシー『スタイル』37

 ある種の公表はアテネに存在していたに違いない、それは明らかである。文学が存在するという単なる<事実>がそのことを証明している。というのも、公的な共感がなければどうして文学が生じよう。あるいは、定期的な公表がなければどうして公的な共感があり得よう。もし詩人が大きな聴衆を、彼の作品を歓迎し取り上げる不変の聴衆が期待できないなら彼の仕事はなんと困難な芸術であろうか。

 

 さて、ペリクレスアテネで、文学者が依存していた民衆はどんなものであり、いかに構成され、どう保証されていたのだろうか。端的に言って、アテネの作家はどういう経路で<公表>を計画しただろうか。これは非常に興味深い問題であり、ギリシャ文明においてなにがそれを促し、なにが妨げたかは重要な問題である。その古い時期──トロイ遠征からペイシストラトスやソロンまでの五百年が想定される──すべての<公表>は二つの階級に限られていた。朗詠者に歌い手である。疑いなく、『イリアス』と『オデュッセイア』はこれらの詩を最初に編集、校訂したと伝統的に評判されているペイシストラトスによって与えられた。これら朗詠者や歌い手はハープを伴奏にして大宴会ごとに『イリアス』の全体を演じたことだろう。それぞれの巻は各国の各地方、トロイと関係する先祖をもつ者の間で記憶され、流通していた。しかしながら、こうした発表の仕方は感覚的楽しみに与る芸術のなかでも欠点がある。ギリシャ初期において広く普及したこうした公演は、後期ギリシャとそれを取り入れた盛期ローマでも夕食につきもののακροαματαとして確立されており──つまり、音楽がつくこともつかないこともあるが耳に訴えかける朗詠──οραματα、目に訴えかけるもの(踊りや剣闘士の戦い)と同じ程度頻繁に演じられた。疑いなくそれは古代ギリシャから受け継いだものであり、オリンピック競技の遙か以前、公的な共感を得るためになされたものだが、長い間制度として保たれていくうちに簡潔でまれなものとなり、必要を満たすことができなくなったのである。

 

 これが公表の最初期の、脆弱な幼児期の努力だった。聴衆に制限がある他に題材は詩に限られていた。だが、ギリシャの理想が近くに迫り来る野蛮人との比較によってますます高まり、愛国心が自己の正当化と結びつき、そびえ立つ都市が目に見える鏡としてこの地の光輝を反映するようになり始めると、こうした公表への切望は休みなく抑えがたいものになってきた。そしてついに、ペリクレスの時代になると、都市の巨大化に伴い、アテネではそれぞれに巨大な二つの公表の方法が起こったのである。